大衆とコモディティー






「付加価値指向」とは、最近良く語られるキーワードだが、それを論じる前に、大衆が使うモノは「本質的にコモディティーである」ことを忘れてはならない。それは付加価値のあるモノは、基本的に誰にでも使いこなせるというものではないからだ。その違いが評価でき、その違いを出せてはじめて、付加価値となる。この違いがわかるヒトが、その領域の「エリート」である。「付加価値指向」とかいわれることが多いが、元来付加価値とはそういうものである。全てのヒトが、理解し評価できるモノでないからこそ、付加価値なのだ。

評価とは、そもそもそうい面を持っている。良くいわれるように、人間の能力評価は、被評価者と同等以上の能力を持っているヒトしか出来ない。自分よりスゴい相手に対しては、「スゴい」ことはわかっても、どのくらいスゴいのか、という比較評価はできない。日本の企業の場合、年功制度により、本人の能力と関係なく管理職ポストにつくことが多い。これでは評価者として不適切である。そもそも、能力評価は無理といわざるを得ない。日本企業で、きちんとした成果主義、能力主義が運用できないのは、このせいだ。

とはいうものの、「違いがわからないヒト」に対しても、「付加価値のある商品」は波及効果を持っている。だから、付加価値指向が商売になる。欧米の「高級ブランド」などは、そのよい例だろう。ブランドがブランドたる由縁は、個性溢れる優れたデザインだったり、素材の材質選定の良さだったり、伝統に支えられた作りこみの良さだったり、それなりに理由がある。そもそも優れた商品なのである。それなくして、マークだけつけても、ブランドイメージは維持できないし、逆にすぐに悪いブランドイメージが作られてしまう。

人間としての品格に富んだ「人間性豊かな」顧客は、これらの条件を充分わかった上でブランド品を愛用する。しかし、実はこういう人たちは、表面的なブランドにはコダわらない。ブランドがなくても、自分で審美眼を持っているから、いいモノはわかるし、そのメガネにかなうものだけを自分で選んで使っているからだ。だからこそ、こういう人たちは質が落ちれば、いくらブランドがついていようともその商品を買おうとはしない。ブランドをブランドたらしめているのは、こういうコアユーザーなのである。

しかし、こういうコアユーザーは、全体からみれば少数である。あるブランドのユーザーの全てが、その良さがわかって使っているのではない。多くの「大衆」は、そもそも「違い」を感じ取るセンスを持っていない。こういうヒトたちがモノを選ぶ時、たよりにするのは他人である。まさに、コアユーザーの審美眼を頼って、モノ選びをする。これが、ブランド商品が、高くても売れる理由である。自分はわかってなくても、わかってるヒトが使っていることで、納得し、安心するのである。

付加価値性が重視されるということは、このようなブランド商品的な構図が、あらゆるジャンルの商品で重要になるということである。商品やサービスの付加価値が問われるようになった以上、こういう構造を踏まえてモノやサービスのあり方、すなわちマーケティングを行う必要がある。しかし今まで何度も述べてきたように、これからは「エリート」と「大衆」という、育ちも人間類型の違いによるクラスタの二分法で、世の中が語れるワケではない。もちろん、全てにおいて「大衆」型の反応をする層が相対的に多数なのは間違いないが、それが圧倒的過半数を占める状態ではなくなる。

これが問題なのは、一人の人の中に、領域ごとに「エリート」と「大衆」の両要素が並存する点である。本人が「どうでもいい」と思っていたり、極めて「ミーハーである」ことを自覚している「大衆的」部分がある一方、ここは自分にとって自己アイデンティティーにつながるという、「譲れない」部分もある。かつては、ファッションにコダわる余裕のある人なら、食べ物もグルメ指向ということがいえたかもしれない。しかし、ファッションには極めてセンシブルでこだわり、審美眼もレベルが高く、毎月何十万と使っているヒトが、食べ物はジャンクフードで充分満足してしまうことも珍しくない。

ということは審美眼のある層として、かつてのような斯界の「オピニオン・リーダー」だけを峻別してコミュニケーションすれば済む問題ではなくなる。「譲れない」部分に対する働きかけは、基本的にかつての「エリート」に対するコミュニケーションと同じである。しかし、そのターゲットは「特異な小集団」構成しているわけではない。アイテムごとに、大衆の海の中にターゲットは散在している。その分野のエリートのコミュニティーは存在しているが、それはまさに「ヴァーチャル」なコミュニティーになっているのである。

そうである以上、「エリートに対する語り口」を「不特定多数に対するコミュニケーション」として届ける必要がある。これは、今までのマーケティング・コミュニケーションのあり方とは全く異なる。「高度な語り口」を、「リーチ的な手法」で発信する必要がある。「高度な語り口」については、高級ファッションブランドのコミュニケーションテクニックが参考にはなる。同様に、「リーチ的な手法」については、そのメソトロジーは探求され尽くしている。これを組み合わせて最適化したコミュニケーションを作るところが、これから求められる部分である。

そういう意味では、ターゲットととして「大衆」を相手にするのではなくても、コミュニケーション・コンテンツのヴィークルとして「マス・メディア」を利用することもありうる。これは、単純にコストの問題だけである。通信販売のデリバリーに、ヤマト運輸を使うか、佐川急便を使うか、ゆうパックを使うか、はたまた自前のデリバリー部隊を持つか、といった程度の問題である。そして、どういう人間もミーハーな部分を持ち、特にエンターテイメントについてはミーハーな部分が強い以上、そういうヴィークルとしてはマス・メディアを利用するのが最もコスト的に有利でありつづけることは疑いない。

マス・マーケティングは、基本的に差のないコモディティー的な商品やサービスをどう売り込むかというものである。それはそれで、今後も通用する分野はある。その分野におけるマーケティング・コミュニケーションについては、旧来の手法が応用できるだろう。一方、付加価値のある商品においては、手法より語り口が重要になる。今見たように、手法は既存のシステムやメソトロジーで補完できる。しかし、語り口はそういう「理屈の産物」ではない。付加価値の高さを語れる「語り口」は、ヒラメキ、神の啓示の産物である。これは誰にでもできるものではなく、神により選ばれし者だけができることである。そういう意味では、これからマーケティングは、知識や勉強より「霊感」の勝負になるといえるのだ。

(03/07/11)

(c)2003 FUJII Yoshihiko


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