治安と責任





このところ、少年による殺人事件をはじめ凶悪事件が多発しており、週刊誌やワイドショーは、おどろおどろしい事件報道の花盛りである。それとともに、またぞろ「最近は治安が悪くなった」という問題が話題に上ることが多くなった。しかし、人間社会においては、治安は悪いのが当り前である。かつて治安が良かったかもしれないが、それは偶然ラッキーだっただけ。そもそも、大衆は性悪説である。ほっておけば、治安は悪くて当り前。だから大衆を礼儀正しく行動させるには、前にもかいたように、相互監視の秘密警察システムを構築する以外に手はない。

とはいうものの、それで全てが解決するわけではない。古今東西の例を見てもわかるように、禁酒法ができれば秘密酒場ができるし、検閲が厳しくなれば口コミネットワークができる。どのような監視システムを導入したところで、どうせその裏をかいて、抜け穴を作ってしまうのが大衆なのである。一筋縄では行かない。すると今度は、そこがいい商売になったりする。ということは、ゆきつくところは、システムコストと抜け穴のいたちごっこになる。こうなると、完全に押さえることは不可能になる。まさに大衆社会とは「地獄の沙汰も金次第」なのだ。

かといって、お上に治安を期待するのは、「甘え・無責任」の温床以外の何物でもない。治安が「お上」まかせの場合、治安が悪くて責任を問われるのは「お上」である。下々の「庶民」にとっては、自分がコソっと悪いことをやって、結果治安を悪したとしても、別に何の責任もない。となれば、下々のものはやり放題。おまえのものは俺のもの、俺のものは俺のもの、である。まさに許認可行政が、官僚の利益を第一義的な目的として構築されたのではなく、それによってカルテル的に権益を守られる側のメリットに、官僚が乗って構築されたものであるのと同じ構図である。

逆に、お上が治安に対する責任を一切持たないとなったらどうなるだろうか。そのとき、「庶民」は、責任からの隠れ蓑を失う。いつ自分の財産や権利、生命が脅かされるかわからない。つまり、常に自分の身を自分で守らなくてはならないという状況に置かれる、ということである。こういう緊張感があってこそ、「自立・自己責任」の精神は鍛えられる。「スキあらば討たれる」からこそ、状況変化に敏感になるし、責任感も高まる。命の危険と隣り合わせならば、だれも「甘え・無責任」ではいられない。自分の身ぐらい、自分で守れないようでは、生きてゆく意味がない。治安をよくしたいのなら、誰もが自分で自分の身を守るための銃器などの「護身用武器」の携帯を見とめるのが一番いい。日本でも戦前は、ひとかどの人物は、ピストルぐらい持っていた。

「治安が悪い、治安が悪い」と他人事のようにほざき、「誰かナントカしてくれ」と無責任をキメ込む。現状がそうなのだが、そういう、ヌクヌクとした甘っちょろい環境でしか生きられないような、退化した人間ばかりということの方が、余程日本の将来が思いやられる。治安が悪くても生きられる人間ばかりなら、そのバイタリティーは筋金入りであり、信頼できる。マッドマックスではないが、生きるか死ぬか、殺すか殺されるか、こういう生き馬の目を抜くような熾烈な状況でも、確実に勝ち残れること。これが、自立・自己責任の精神を涵養する上では、最も大切である。

しかし、日本人は余程こういう「自己責任」が苦手と見える。日本の歴史上、最も自分で自分の身を守らなくてはならなかった時代といえば、戦国時代であろう。その戦国時代でも、自分は戦いに参加せず、傍から流れを見ていて、上手く勝ち馬に乗る輩が多かったらしい。戦いも山を越し、形勢がハッキリしたところで、勝ち組に「金魚の糞」のようについてゆくのである。しかし、そういう連中は、それなりに甘い汁にありつけても、決してリーダーシップは取れない。世渡りは上手くても、決して名将にはなれなかった。歴史に残るような武将は、「自立・自己責任」で率先して戦ったからこそ、名を成したのである。

昨今、「デフレ」が問題視されることも多いが、治安が悪くなれば、それなりに経済効果を生み出す点も見逃してはならない。殺人でも強盗でも、どんどん増えて、治安が悪くなれば、金を持っている人間は、当然治安を「買う」ために、支出が多くなる。貧乏人がいくら金を使っても、本当の意味で景気は良くならない。経済規模は拡大するかもしれないが、質的には深まらない。金持ちが多く支出するようになってこそ、真の意味で景気は活性化するし、文化的貢献も高まる。だからこそ、治安ビジネスには、大きな経済活性効果が期待できるのだ。アメリカの治安ビジネスの大きさを考えれば、その経済効果は充分に期待できる。

さらに、波及効果も大きい。治安にコストをかけた分、守られた安全を生かして、安心して文化的支出もできるというワケである。それだけでなく、この世に、天国と地獄ができれば、上昇指向に対するドライバーとなる。そういう「エントロピーの差」があるからこそ、向上心というエネルギーが生まれる。早く、この地獄から抜け出し、成り上がりたい。そういう意欲は、治安の悪い地域と、コストをかけて治安が守られた地域とが、歴然と区分けされていれば、イヤが上でも高まるはずだ。エネルギーはエントロピーの差から生まれるという熱力学の考えかたは、同じく統計現象としての、人間社会のダイナミズムにも通じる。

そしてこれは、国際化という視点からも重要である。治安の悪い中でも、しぶとく生き残り、チャンスをモノにする。そのための行動力、判断力がなくては、世界に通用しない。これができない人間は、井の中の蛙であり、グローバルなチャンスを生かすことはできない。また、最近問われている「世界平和への貢献」もまた、この視点の延長上にある。そもそも世界は「性悪説」をベースとしている。その中で、平和を維持するにはどうするか。井の中の蛙的な「パッシブな平和主義」は、全く実効力を持たない。治安は自分で守るという「アクティブな平和」への貢献のみが、国際社会では「真の平和主義」として理解される。そのためにも、治安は、一人一人が自己責任で守るものという考えかたを、もっと日本の中に定着させる必要がある。


(03/07/25)

(c)2003 FUJII Yoshihiko


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