演繹の世代






団塊の世代といえば、とにかく理屈好きとして知られている。何でも、理屈がついていないと納得できないし、逆に、自分で屁理屈であっても説明する理屈を作ってしまえばそれだけで納得する。果ては、なぜそれが好きなのか、気に入っているのか、という本来感覚的なことまで、評論家のごとく自ら「分析」し、ご丁寧に他人に説明までしてくれたりする。そういう意味では、かつては「知は力なり」と言われたように、知識・論理ドリブンの最後の世代と言うことができる。

これは、まさに彼等自身の自己分析を待つまでもなく、そもそも彼等のアタマの構造からして、そうなっているとしか考えようがない。あるロジックを立て、そのロジックに沿ってしか物事を受け入れられないアタマなのだ。それは、彼等がステップ・バイ・ステップ、すなわち「演繹的」に物事を把握、理解しているからである。粘土細工のように、まず全体を俯瞰したカタチから入って行くのではなく、煉瓦積みのように、一段一段、あくまでもその構造から入って行くのだ。

もちろん、それが常に問題というわけではない。たとえば数学の問題のように、単に一つの事象だけを論理的に理解しようというなら、演繹的であっても、帰納的であっても、エレガンスの差こそあれ、そんなに実質的な差はないだろう。ぼくも高校生の頃とか、あえて「正解」として載っている証明ではなく、いわゆる「別解」で証明して粋がったものである。その場合、大体「正解」は演繹的であり、「別解」は帰納的であることが多かった。しかし、現実の問題を理解し、把握し、それに対する対応を考える場合となると、少し状況はことなる。

それは、演繹的なロジック自体が持つ、構造的とも言える問題である。世の常として、論証の一段ごとに、ある程度の誤差というか、数字の有効値の範囲のようなものが必ずある。そして演繹的なロジックのなかでは、何段も論証を繰り返す必要がある。そして論証を何ステップも繰り返しているうちに、必ず誤差の積み重ねが起る。数学的な世界ならば、その誤差自体もある種の「確率的事象」となり、プラスもあればマイナスもある、という中で、長い目で見れば誤差が相殺される可能性も高い。しかし、社会事象についてはそうもいかない。誤差はある種のバイアスであり、常にある方向へ歪みが重なることが多い。

このようなバイアスのかかった論証を、何段も繰り返しているうちに、論理の展開は、「筋こそ通っている」ものの、そこから得られる結論は、現実とは似ても似つかないものになっていまう。それだけでなく、論理が無限ループになり、トートロジーに陥るコトも少なくない。困ったことにはそれでも、本人にとっては、美しいロジックに向かってまっすぐ進んでいると信じきっている。富士の樹海で道に迷う自殺者の話ではないが、当人は真っ直ぐ進んでいるつもりでも、同じトコロをぐるぐる廻っているだけなのだ。これでは、議論が噛み合わないのも当然である。

論理自体が正しく正当性があることと、論理的展開としてスジが通っていることとは別問題である。簡単な例だが、前提条件の正しさが担保されていない状態で、それをベースにどんな論旨を展開したとしても、結論が正当性を持つことにはならない。団塊の世代の「スジが通った」議論というのは、ほとんどこういう問題をはらんでいる。勝手に「猪突猛進」な論理を展開しているだけなのに、実際には堂々巡りになっている議論をあたかも「定規で線を引いた様に、真直ぐな論理」と信じ、だからこそこれが「正しい」と主張する。これはそもそも、論理展開としての整合性と、結論の正当性を混同しているからだ。

なぜこれで通ってしまうのか。それはそもそも、自分が「前提条件」としているものは、アプリオリに正しいものとして受け入れてしまう習性を持っているからである。世の中には、イデオロジカルに「正しい」ものが存在する、と信じている。これはまた、全体像を見るのが苦手だったり、見ようともしないことにつながると思うのだが、全体像を客観的に捉えて、それが良いのか悪いのか、どう変化すべきなのかという発想は全くない。全体像は、イデオロギー的に「所与」の原理としてしか捉えないのである。ほとんど「前提原理主義」である。

困ったコトに、これと「好一対」の性癖として、戦略的な大前提を問題の本質として捉えず、手段としての各論を本質と思い込みやすい習性がある。その一方で、演繹的にモノを考えてゆくと、往々にして「フラクタル」ではないが、論理展開が細かくなりすぎる。そうなると、議論自体が枝葉末節の蛸壺に陥りやすい。だからこそ、ますますそこが本質と思いやすい。こうなると、ますますどうでもいい微細な各論に拘泥し、本質からどんどん遠ざかる。かくして、彼等は全体像をつかむのが、とてもヘタである。ヘタと言うより、できないと言うべきであろうか。

団塊の世代が、その「ブランド観」や「趣味」といった局面で良く見せるように、「内実」からではなく、「形式」から入りたがるのは、これゆえである。また、「戦術論」ばかりで「戦略論」がなく、「部分最適」はできても「全体最適」を考える発想がないことも、ここから理解できる。そしてこれは、最後の「知識」の世代という、彼等のアタマの構造に根ざした、本質的な「モノの考えかた」に由来する問題である。これもまた、彼等のいろいろな習性と同様、彼等以前の世代に共通する価値観や意識がもたらしたものだ。

事実は事実であり、決して理論通り動くものではない。世の中の全体像とは、そういうものなのである。だからこそ、戦略的に全体をどうしたいのか、どうすべきなのか、自分の意志として決定しなくてはイケない。それが今問われている。しかし団塊の世代はそうではなく、どうすべきかがアプリオリに決っていて、実際に「この世」でやるべきことは、それをどう実現するかという戦術だけ、という発想に凝り固まっている。「バカは死んでも直らない」ではないが、こういう習性が生来の刷り込みである以上、早く彼等がリタイアして、世代交代を進めることを願う限りである。



(03/08/08)

(c)2003 FUJII Yoshihiko


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