製造物責任







少年の絡む重大事件が発生すると共に、各方面から「親の責任」を問う声が聞こえてくる。そもそも責任という意味では、未成年であっても、子供であっても、第一義的には本人の問題である。何歳だろうと、犯してしまった事件の責任については、当人に対して厳しく追求するのが、本来の姿である。「未成年だから」と特別扱いするのは、何とも日本的な甘っちょろさだ。そういう意味では、「親の責任」すぐ問い、それを重視すればするほど、「本人の責任追及」からは遠ざかってしまうことになる。子供であっても厳しく責任を追及するような風土があってはじめて、責任感も育つというものだ。

このように、何かあるとすぐ「親が」というコトバが出てくること自体、まさに日本的甘えの体質の現れである。こういう姿勢でいるから、ますます子供が「甘え・無責任」になり、蛮行の限りを尽くすようになる。少年の犯罪を防ごうというのなら、欧米のように、なるべく小さいうちから、「自分の責任」を問うべきである。10歳以下でも、幼児でも、犯罪行為を犯した以上は、刑事犯として、大人同様に厳しくその責任を問わねばならない。凶悪犯であれば、厳罰に処するべきである。子供でも死刑もありうる、という体系こそ望ましい。

「公園デビュー」ではないが、世の中に出ている以上、世の中のオキテに従う必要がある。世の中のオキテを守れないヤツは、世の中に出歩くべきではない。それこそ、引きこもっていればいい。そのほうが余程、社会全体としては迷惑しないで済む。そもそも「義務」と「責任」という概念が理解できない間は、人間ではない。生物学的には「人間」のカタチをしていたとしても、社会的には人間とはいえない。そしてそういう「人間」には、人権は与えられない。「権利」は、天賦のものではない。「義務」と「責任」を果たしてはじめて手に入れることができるものだ。これは、大人でも子供でも同じだ。

免許が要るのは、自動車や自動二輪だけだが、歩行者も信号を守らなくては行けないのと、同じ道理だ。交通法規を守れない、守らない人間は、出歩いてはいけないし、そういう人間が事故にあっても自業自得というものである。基本的には、一人で出歩き、行動できるようになった時点で、「自己責任」を問うのが望ましい。親に責任があるわけではない。逆に、親も被害者である。子供が事件を起こしたゆえ失った社会的、金銭的損失については、損害賠償を求めても良いくらいだ。そういう責任を取れない子供なら、一人で出歩かせること自体が間違っている。

しかし、中には生まれながらにして責任を問いえない子供もいる。それは、不幸にして法律上「責任能力なし」と見なされる条件に合致してしまった子供達の場合である。こういう場合には、当人に「責任」を問うことができない。そういう場合は、製造者の責任として、親の責任を問うべきである。しかし、これはまさ製造物責任である。作った製品に問題があり、結果、たとえば欠陥のあるクルマが発火して運転者がケガしたり、死亡したりするのと同じでありる。となれば、この場合の「親の責任」はPL法の延長上で考えるべきである。

製造物責任法の考えかたは、その第3条に示されているように、基本的に次のようなものである。一般に、製造物は、メーカーから卸売業者を経て小売店に卸され、それがエンドユーザーである消費者に販売されることになる。製造物責任法においては、たとえば製造物に欠陥がありエンド・ユーザーが損害を被った場合、エンドユーザーが小売店などを飛び越えて、直接、メーカーに対し無過失責任を負わせ、損害賠償責任を追求できるというものである。責任を追求できる者としては、エンド・ユーザーだけでなく、損害を受ければ第三者でも責任を追及できる点も特徴がある。

親に責任がある場合の論拠も、これに求めることができる。この考えかたは、なにも子供が未成年の場合に限らない。「責任」を取りようがない、「責任」を取らせることができないヒトについては、どんな場合でも成り立つ議論である。成人した犯罪者の場合でも、結果、責任能力がなくて罪を問えず、被害者が辛い思いをするコトも多い。このような場合も、この製造者責任の考えを取り入れれば、親の責任を問うことが可能になる。欠陥品を作って世の中に送りだし、その結果迷惑をこうむった人がいるのだから、このような場合は、もっともっと積極的に、製造物責任として「親の責任」を問う必要がある。

しかし、ここには問題がある。人間の性格の多くは、遺伝的形質と、ミームすなわち環境遺伝により決定される。したがって性格的問題の多くが、親の影響であるということができる。である以上、親が「甘え・無責任」なら、子も「甘え・無責任」になることになる。子供は親を良く見ている。親が自分でできない、自分ではやらないことを、いくら注意してやらせようとしても、子供はシラケるだけ。決していうことはきかない。こうなると、本来製造物責任を負わせるべき「親」が、まさに子と同様に「責任能力」を持たない可能性が極めて高いことになる。

すなわち問題は、製造物責任を取らせるべき親に限って、親もまた「甘え・無責任」であり、責任能力がないということである。世の中ではまさに、「甘え・無責任」の拡大再生産が続いているのだ。そうであるなら、そもそもそういう連中に「人権」を与える方が間違っている。「責任」を取る代りに「権利」を持つヒト。「責任」を取らなくていい代りに「権利」を持たないヒト。この両者は生物学的には同じ種であっても、対等ではないのだ。この視点を持たずして、親が謝るべきとか、責任を取るべきとか議論しても、そもそも机上の空論に過ぎない。思いつきの感覚的議論をはじめる前に、これを肝に銘じるベキなのだ。



(03/08/15)

(c)2003 FUJII Yoshihiko


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