冷夏というチャンス





春頃に出ていた長期予想はどこへやら。最近の経済動向の予測をマネたのか、何年かぶりの冷夏ということで、ぐずついた天気が続いている。特に東日本では、梅雨の時期こそ夏のような暑い日があったモノの、「夏」になるとともに、にわかに梅雨のような天気が続いている。こうなると、農作物の不作が問題になってくる。確かに、農業は自然の一部である「植物」を育てなくてはならないので、自然環境の動向には大きく影響される。それだけでなく、冷夏の景気への影響などという論説まで飛び出す始末。ちょっと待て。なんで冷夏が、即、景気への悪影響なのだ。

確かに、夏向けの商売は、暑い方が活性化する。とはいうものの、それはあくまで「神風」だよりで、何も経営努力をしなくても波に乗れるため、他力本願の経営でもうまく行くという意味で「景気がいい」のである。まさにお天気任せの経営。いかにも日本的な、自らの努力と才覚でチャンスをつかむという、本来の経営的発想ではない。そもそも、冷夏というのは、尋常ではない状況、いわば特異点なのである。ということは、そこには通常の年にはない可能性が秘められているハズである。そちらに目を向けず、ただひたすら愚痴るだけ、というヒトが何とも多いことか。

もちろん、「海の家」のように自然そのものを抱き込んだ商売をしている場合は、農業と同じように、お天道様の動向に影響されるところは大きい。こういう方々は、農業の方々と同様、ご愁傷さまである。しかし、一旦目を転じれば、違う発想ができる。雨が降っていようと、気温が低かろうと、夏休みを取っているヒトはいるのである。であるなら、本来なら海へ山へ向かっていた、この人達の時間とサイフを奪うには、またとないチャンスということになる。通常より一歩俯瞰的な視点から、よりポジティブに状況を見つめれば、あらゆるモノがビジネスチャンスたりうるのである。

この発想の差、視点の差が、どうも日本人には決定的に欠けている点である。90年代以降の状況を「景気が悪い」「景気が悪い」というだけで、あくまでも他人頼みの「甘え・無責任」な押し付けで乗り切ろうとしかしないところなど、まさにこの冷夏の状況と瓜二つである。これはそもそも、人間の能力ををどう捉え、どう評価するかというところに根ざしている。問題を把握し、解決する能力を以て、「アタマの良さ」と言うこととする。確かに世の中では、そういう意味で「アタマがいい」というか、アタマの回転の速いヒトがいる。しかし、良く見てゆくと、こういう「アタマがいい」ヒトにも二つのタイプがあることがわかる。

一つは、日本では比較的多いタイプの「アタマのいい」ヒトである。与えられた前提条件を与件として、その枠組の中で、サクサクと正解を導き出すタイプである。もう一つは、与えられた前提条件を越えて、新しい枠組を構築して、そのより大きなフレームの中での最適解を導き出すタイプである。このタイプの「アタマのいいヤツ」も日本にいないわけではないが、決して多くない。そして、前者のタイプは広く社会的に「アタマがいい」と見とめられていることが多いのに対して、後者のタイプは必ずしも「アタマがいい」と認知されないことが少なくない。せいぜい「地アタマがいい」と呼ばれるかもしれないが。

もうお分かりだと思うが、前者は「秀才」である。あるレベルでアタマが回転するなら、あとは知識と勉強・経験でフォローできるコンピタンスである。したがって、そのアウトプットも後から理解・検証が可能であり、わかりやすい。だから、世間から認知されるのである。これに対し、後者は「天才」である。現状を超越したスキーム自体を提示してしまうワケだから、これは凡人には理解できない。しかし、現状を超えた新しい可能性を創り出すには、「秀才」では無力であり、「天才」のクリエイティビティーが何よりも必要なのだ。

欧米においては、この違いがきっちりと理解されている。これは別に、知的生産の所作にとどまらない。F1レースや、水泳、スキー等で、日本のチームが活躍すると、決って日本チームに不利なレギュレーションの変更がある。これを以て「不公平だ」「不平等だ」という向きも多いが、それは物事の本質を見ていない。日本人は、あくまでもルールやレギュレーションを絶対的な前提条件として見てしまい、それを前提にした「最適化」を実践する。しかしそれはスポーツの一部でしかない。試合以前の、「いかに自分に有利にルールを変えるか」という政治的なところからして、スポーツとしての「勝負」は始まっているのである。これがグローバルルールなのだ。

戦略家と戦術家は、そもそも異なる生き物である。百発百中の射撃の名手と、部隊全体の用兵や、政治的駆引の名人は、そもそも異なるのだ。戦術家なら、まだ努力でフォローできる部分も多い。しかし戦略家は、もはや発想や視点と言った「地アタマの違い」の問題である。自分が全体最適を導けないヒトは、無理して自分で考えず、アタマの構造が違うヒトに任せてしまうべきだ。最近問題にされる「全体最適」とは何か、などと考え込んでしまうようなヒトには、そもそも最適化は無理である。それなら、あっさり自らは戦術家として「部分最適」のプロに徹し、「全体最適」はそういう能力を持ったヒトに任せてしまうべきだ。それが、せめてもの勇気と言うべきだろう。


(03/08/22)

(c)2003 FUJII Yoshihiko


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