優勝体験







18年ぶりで、阪神タイガースがリーグ優勝した。個人的には、決して阪神ファンではないのだが、ご同慶のいたりである。今年、阪神タイガースのこのような快進撃がなかったら、日本のプロ野球はどうなっていただろうか。間違いなく、スポーツ紙の一面は大リーグの記事の方が多くなり、テレビの野球中継も、NHK午前枠の大リーグ中継にも視聴率で負けてしまうコトが多くなっていたに違いない。そういう意味では、まさに神風といえるだろう。

もしかすると、この神風が結果的にプロ野球の改革を遅らすことになってしまうかもしれないが、短期的に見ればプラスなのは間違いない。そしてこの効果は、他の球団が調子良いのでは意味ない。そもそもタイガースが調子いい、ということ自体、プロ野球においては「非日常」の極みなのである。ヤクルトが調子良くても、中日が調子良くても、それは「日常」に織り込み済みの範囲。喜ぶのも盛り上がるのも、「プロ野球」ファンの中の問題である。

しかし、タイガースはそうではない。タイガースが強いということ自体が、「社会的事件」なのだ。当然、プロ野球ファンでないヒトも渦中に加わる。だから経済効果が高いし、新しいファンを生む。社会現象になれば、昨年のワールドカップと同じで、「なんか知らないけど、面白そうだから列に並んじゃおう」という、昨今の若者気質にアピールしてブレイクしてしまうことになる。この盛り上がりで、新たに「野球って面白い」と「発見」したヒトもけっこう多いだろう。

また、タイミングがいい。連休中の甲子園で優勝決定というのも、でき過ぎだ。それだけでなく、ちゃんと優勝寸前で連敗しまくる、という、ディープなタイガースファンにつきものの「自虐史観」の琴線に触れる演出までしてくれるのだから、いやがうえにも盛り上がりは絶好調。大阪の街角が異常な熱気と人波で溢れかえるのも、必然の成り行きとなる。それにしても、テレビ中継で見ていてもエキサイトしてくるその興奮は、現場にいたらどんなにスゴいのだろうか。ハイに成り切って、道頓堀に飛び込む気持ちも、充分過ぎるほどわかってしまう。

さて長いマクラになったが、この「社会的な盛り上がり」の中継を見ていて、ふと気になってしまったことがある。それは、この「盛り上がっている人たち」の心は、何に向かってエキサイトしているのだろうか、ということである。少なくともこの群集の過半数、いや大部分は、祝勝会でビール掛けをしている選手たちの気分に感情移入したり、シンクロしたりしているものではない。選手達の感情は、本当に優勝感を味わったコトのあるヒトでないとわからないものだ。そして、その優勝感を味わうチャンスというのは、そう簡単に得られるものではない。

そもそもスポーツでは、優勝者は大会の数しかない。大会そのものはビッグイベントから、身内の試合までピンきりだが、優勝者は参加者数より少ないこと、優勝者≦敗退者でなくては大会そのものが成り立たないことは、そもそもの公理である。オマケに、優勝するヒトは複数の大会で優勝する可能性が高いのが現実であり、一段と狭い門となっている。さらに世の中一般の競争では、もっと勝者になれる可能性は低まる。それは、スポーツのようなルールがなく「何でもあり」な上に、いくつも大会があるワケではない分、強いものが圧倒的に有利に進むからだ。

ということで、日本人の多くは、本当の意味で「優勝の美酒に酔う」という経験のないまま、一生を終わってしまうのだ。勝者がどんな気分になるのか、成功体験というのはどういうものか。一生知ることはない。しかしワキから見ていて、実際には経験したコトがないものを、「その気になって、知ったかぶり」しているヒトのなんと多いことか。「ビール掛け」は面白そう、とその表面的な盛り上がりは誰でも共有できるが、その裏にあるカタストロフというか、本当の盛り上がりは、実際の優勝経験を持ち、「ビール掛け」をしたコトがあるヒトしか得られない。

この「知ったかぶりメンタリティー」は、ある種日本の大衆感情のベースに根深くある。勝手な思い込みを持ち、自分が理解できる範囲で感情移入することで、即、プレゼンスのある相手に同化し成り切ってしまう。これは、日本の大衆の「甘え・無責任」体質の基本構造の一つである。「プロジェクトX」で盛り上がるのもこれである。祭で自らは神輿を担がず、脇で酒飲んでわいわいやるだけで「参加した気」になるのもこれである。過去をたどれは、うだつの上がらないオッサンが、「皇軍兵士」になることで天皇の傘を着て、虐げられた人々に暴虐の限りを尽したのも、また同じ精神構造である。

「お手々つないでゴールイン」する徒競争が揶揄されるが、それは今に始まったものではない。日本の大衆、そしてそれを支える日本の共同体意識の中に、勝ち負けを曖昧にして、悪平等を好む遺伝子が組み込まれている。勝った嬉しさも、負けた悔しさも、本当にそれを味わったことのある人にしかワカらないものである。日本の大衆は、それを曖昧にし、だれも傷つかない状況に浸りきることで、「甘え・無責任」な社会を実現した。それならそれでいい。そこに浸っていたいなら、浸っていればいい。あとは、勝てる人間だけさっさと勝って、「ゆで蛙」にしてしまえばいいのだから。


(03/09/19)

(c)2003 FUJII Yoshihiko


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