守旧派・抵抗勢力の本質





小泉首相が、自民党総裁選挙で再選された。小泉首相をどう評価するかは、いろいろ議論もあるかもしれない。どこから見ても、彼自身が新しいスキームを構築できる存在とは到底思えない。しかし、パラダイムシフトのためには、「アンシャン・レジーム」の破壊者が必要である。そういう役回りとして捉えれば、守旧派・抵抗勢力でないことは確かだし、それなりの評価は可能であろう。今回の選挙は、一週間ぐらい前から、ほとんど形勢が見えてしまっていたので、前回のようなスリルはなく、至ってセコい試合になってしまった。

ということで、選挙のプロセスそのものは余り盛り上がらなかった、しかし、それだけにわかったことも多い。それは、守旧派・抵抗勢力の本質がどこにあるかということである。小泉さんと守旧派・抵抗勢力の候補とは、そもそも論点が噛み合っていないし、そういう意味では「試合」になってない。それは、守旧派・抵抗勢力は、「自民党」の総裁選である以上、ある限られた共通ルールのコンセンサスがあり、その枠の中での戦術に権謀術策を尽くしたのに対し、小泉さんはそもそもそんな枠など考えていないからである。これがポイントだ。

いわばスタジアムに出てきて、もうここでは「サッカーをやるモノ」とハナから決めつけ、どう戦おうかと考えているのが守旧派・抵抗勢力の特徴である。それはみんなが暗黙の了解として認めているからこそ成り立った。しかし、その「サッカーをやる」という暗黙の了解は絶対的なものではなく、いつでも成り立っているものではない。この、「決ってはいないのだけれど、その方が楽だし、思考停止できるから、便宜的に暗黙の了解を作ってしまう」という発想自体が、実に日本的な「甘え・無責任」な発想の産物である。

本当なら、フットボール系の試合をやることぐらいは決っていても、そもそもやる種目自体が決っていない状況にあるというのが本質である。だから、アメフトをやるか、ラグビーをやるか、はたまたサッカーをやるか、というところから入ろうというのが、本来の「戦略」である。どの種目を選ぶのが、自分にとって有利か。あるいは相手にとって不利か。その種目をみんなでプレイするよう仕切るには、どういう権謀を凝らせばいいか。試合は、ここから始まっているのだ。

だから守旧派・抵抗勢力からすれば、ボールを手で捉まれることなど、全く考えていない。しかし、種目自体が決っているわけではないので、手が使えないという保証は実はどこにもない。この発想の違いは、ほとんど2次元と3次元の違いのようなものだ。噛み合わなくて当り前。そもそも、そういう「先入観」と「便宜的なお約束」で固めた発想が通用してしまったというところが、高度成長期の日本のいいかげんさと特異性なのである。まさに、「ネコにマタタビ」、「『甘え・無責任』に右肩上がり」と言うべきだろうか。

何のコトはない。アタマが廻らない。先入観で凝り固まっている。これが守旧派・抵抗勢力の本質。戦略的に「守旧」なら、それなりに噛み合うし、試合にもなる。けっこういい勝負かもしれない。あるいは是々非々で、認めるところは各々の立場を認め、ぶつかるところで堂々と張り合うことができるかもしれない。なにも考えていないからこそ、鵺のように捉えどころがなく、正面切ってぶつかることもできない。そういう意味では、最近の流行りコトバではないが、これもある種の「バカの壁」というべきだろうか。

しかし、その養老先生の「バカの壁」。なぜか大ヒットというのだから不思議である。読んでみたけど、当り前のコトを、もったいぶって書いているだけである。なにも発見も刺激もない。せっかくバカを語るなら、人間にはそもそも能力、脳力の差があるんだから、チャンスは平等ではないし、分相応のコトをするのが一番いい、とでも書けばいいのだろうが、そういう本でもない。もっともあの本自体が、あれを読んでなんかわかった気になれるヒトと、全然面白くないと思うヒトをより分ける、「バカの壁」の踏み絵と考えれば、それはそれで痛烈な皮肉で最高に面白いのも確かだが。



(03/09/26)

(c)2003 FUJII Yoshihiko


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