小判鮫の再生産






日本の企業人の特徴の一つに、自分の上のポジションにいる人間にへつらいまくることしかできない、「小判鮫」「ヒラメ」と呼ばれる人間類型がある。企業にとって付加価値の高い能力やコンピタンスはなにも持っていない。年功型のヒエラルヒーの中で、ただひたすら、上のモノにおべっかを使い、ぺこぺこと従順そうにシッポを振ることだけで、組織人として渡って行こうとする連中。こういうタイプは、組織のあるところでは洋の東西を問わず必ずいる。しかし、コトのほかこういう連中が多いのが、日本の組織なのである。

強いリーダーの下なら、その下に小判鮫があふれていても、それなりに組織になる。いわゆるミッションや組織形態が軍隊型なら、それでも機能する。高度成長期の経営環境には、そういうスキームで対応可能であった。A地点からB地点に、大量の貨物を運ぶ。そういう単純な輸送ニーズなら、強力な機関車があれば、牽引できるだけ貨車を連ねれば効率的である。かつて石炭が黒ダイヤと呼ばれた頃、北海道では山奥にある炭坑から港まで、長大な貨物列車によるピストン輸送が見られたが、まさにそういう時代を象徴している。

しかし、昨今のように複雑かつ多様な輸送ニーズが起ってくると、このような大量輸送のニーズは少なくなる。強力な機関車の下に、ただ荷物を積むだけの貨車を連ねても意味がなくなり、各々の貨車毎に自立的に目的地へ行くことが出来る機能が求められるようになった。自由に走れるインテリジェントな判断力を持つのであれば、決った線路の上を走ることすら、意味がなくなる。かくして、貨物輸送はトラック中心になったわけである。高速道路が整備されたから、モーダルシフトしたのではなく、ニーズの構造が変ったから、構造変化が起ったのである。

今や企業組織でも、これに似た構造変化が起っている。多様で高度化したマーケットに対応し、付加価値の高い商品やサービスを提供するためには、旧来のライン中心の軍隊型組織では対応できない。各組織や機能単位が、自立的に判断し、行動することが求められる。おのずと、リーダーシップを持った人材が求められるようになる。ところが、ここで何度も語ってきたように、リーダーシップとはある種の才能である。才能ある人間は、そうザラにいるわけではない。大きな組織なら、人材のスケールメリットとして、確率論でそういう人材がいる可能性は高い。小さい組織でも「類友」で、そういう人材が豊富なところはある。

問題は、大きい組織であるにもかかわらず、リーダーシップを持った人材がいないところである。困ったことに、日本の組織の多くがそうなのだ。こういう組織では、そもそもリーダーが不在で、小判鮫ばかり。小判鮫が、組織と肩書にぶるさがっているだけ。最初はそれなりにリーダーがいても、無為に何十年も「小判鮫の再生産」を繰り返すことが「社業」なってしまったところも多い。はなはだしきは、「となりの庭は青そう」とばかりに、そもそもリーダーシップ無しに、最初から高度成長だのみの「モノまね経営」で始まったところもある。

先住者がいて成功している市場があったとき、どういう対応をするか。日本企業の対応とと、ヨーロッパ、アメリカを問わず海外の企業の対応とが大きく異なるところである。そういう市場でマネしても、二番手になるのが関の山。海外企業はそもそもそういうマーケットは先住者に任せ、自分が優位性を発揮できる別のマーケットにリソースを投入するだろう。しかし日本企業の多くは、「二匹目のドジョウ」を狙って、ビジネスモデルもそっくりマネして、そのマーケットに参入することが多い。ここがそもそもおかしいのだ。

先住者がその地位に甘んじて、改善、改革を怠っているのなら、新しいビジネスモデルと共にその市場に参入することも考えられる。しかし、そもそも先住者がそれなりのパフォーマンスを上げているマーケットに、全く同じモノまねビジネスモデルで参入しようということ自体が、経営不在、リーダーシップ不在である。もっといえば、そういう組織は企業とは呼べない。もし、市場に余地があるなら、投資家は先住企業に投資し、その生産能力を拡大する方に期待する。モノまね企業に金を出そうとは思わないからだ。

だだ日本においては、久しく間接金融が中心だった。そして、その貸し手たる銀行そのものが、かつての大蔵省の「護送船団」戦略に小判鮫となっていた、主体性不在の組織だったことは、この数年の金融危機で白日の下にさらけ出された。これでは、ガバナンスは働かない。市場のチェックが働かない以上、無能な小判鮫にも資金が渡ってしまうのだ。ここでもまた、小判鮫達が、小判鮫を再生産し、増殖させる日本社会の問題を、象徴的に捉えることができる。

今「負け組」と呼ばれ、企業不祥事によりガバナンスの不在を問われている企業には、昭和の新興財閥系に多い、組織主導型で経営してきた企業が多い。その一方で、グローバルにブランドを確立し、活躍している「勝ち組」企業には、創設者や設立オーナーが明確で、そのDNAが色濃く残っている企業が多い。結局、行きつくところは一つ、「自立・自己責任」vs.「甘え・無責任」という、密教対顕教の構図である。小判鮫の再生産という悪循環をいかに絶つか。一番悩ましいのは、これ自体、リーダーシップが必要な問題ということである。バカは死んでも直らない、というように、小判鮫の組織は、自己崩壊以外に解決の道はないということか。


(03/10/03)

(c)2003 FUJII Yoshihiko


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