手品のタネ






マジックは、ショービジネスとして長い歴史を持つエンターテイメントである。洋の東西を問わず、古くからサーカスやレビュー、あるいは寄席や宴席の出し物として親しまれてきたし、ショービジネスの拡大した20世紀後半からは、独立のショーやテレビプログラムとしても人気を博してきた。また多くのマジシャンが、世界的なスターとなっている。このアタりについては、他のエンターテイメントプログラムやプロスポーツの世界と余り差はない。しかし、マジックが他のジャンルと決定的に異なる点がひとつある。それは、マジックが語られるとき、必ず「タネ明かし」が問題となる点である。

マジックのネタを知りたいかどうか。基本的にはどんなマジックでも、それを実現している「方法」はある。しかし、マジックが華麗に決るかどうかは、その「方法」の問題ではない。基本的に最も重要なのは、マジシャン自身のマジシャンとしてのタレント性である。タレント性が高ければ、古典的なテーブルマジックをやっても、極めて流麗ですばらしいワザのように見せる。基本的にマジックの魅力は、この「ワザの華麗さ」にある。仕掛けがいかに大掛かりでも、華のないマジシャンがやったのでは、全然つまらなくなってしまうだろう。

また、この「タレント性」は、必ずしも華々しいものでなくても良い。たとえば、コミカルなパーソナリティーもタレント性たりうる。これはこれで充分面白いし、芸としてもまた別の「ワザ」がある。こういう「お笑い系マジシャン」は、日本では特にその例が多い。中には笑いも取りつつ、華麗なワザも出せる「二足の草鞋」なヒトもいる。こういう点から考えても、基本的にマジックというのは、アマチュアスポーツのようにベースになる技術力だけでは不充分であり、それを前提条件とした上でのタレント性が問われる世界である。

しかし、そのワリには「タネや仕掛け」にコダわるヒトが多い。その結果、たとえばマジック番組が始まると、そのタネがどうなっているのか、ブラウン管の前では、喧喧諤諤の議論になるコトが多い。その一方で、人気の漫才師をみて、「どうしてああ次々突っ込むネタが浮んでくるのだろうか」と考えたり、ホームランバッターをみて、「どうしてホームランが量産できるのか」と考えたりし、喧喧諤諤の議論になるということは余りない。基本的には同じコトなのだが、同じエンターテイメントといっても、大きな違いがある。

それは大衆の心のどこかに、「ネタがわかれば自分でもできる」という意識があるからだ。ある種「タネや仕掛け」は技術的に設計されているがゆえに、ロジカルにそれを「学び取る」コトができる。ということは、それさえ解れば、自分とスターマジシャンとの間に垣根はなくなってしまう。そういう「勘違い」があるからこそ、タネの解明に邁進する。本質は、マジシャンのスター性にあるのだが、そこを無視して自己同化を図ろうとする。まさに戦後日本の「悪平等主義の大衆教育社会」の縮図がそこにある。

そもそも、才能はヒトによって違う。スターマジシャンになれる才能は天性のタレント性である。マジックの技術をいくらマスターしたところで、タレント性がなければスターマジシャンにはなれない。タレント性がないのに技術だけあっても、それでなれるのは「マジック学校(そんなものがあるか知らないが)の技術指導者」がせいぜいである。それでは不公平だといったところで、そもそも人間の能力の分布自体がそうなっているのだから仕方ない。それを無視して、誰もにチャンスがあると言いくるめる方が、悪平等なのだ。

この現実は、「自分なりの強みを持っている人」にとっては広く理解されている。自分に強みがあるなら、他人の強みも客観的に評価できる。自分にない「他人の強み」は、「どうせ自分には追いつけないもの」と認めることができる。素直に、あれこれ詮索せずに拍手を送ることができる。百人いれば百様の「強み」がある。ここでは、違う強みを「認め合う」ことが平等なのだ。これが「大物」の世界だ。しかし、こと近代日本社会では、これが社会的コンセンサスとはなっていない。

現実はその逆だ。俗物根性に溢れる大衆は悪平等を指向し、個性の違いを認めようとしない。「目くそ鼻くそ」のレベルで、ののしったり、へつらったりを不毛なままに繰り返す。マジックの華麗なワザを素直に楽しめず、どうもいいタネ明かしの議論にハマり込む。金を払ってみている以上、そのショーをどう楽しもうと勝手だが、それを他人に押し付けるのは困りモノ。実は今の日本社会というのは、この状況そのものである。個人的に「悪平等が好き」「超公平主義が好き」なのはかまわないが、それは自分たちだけでやっていただきたい。守旧派、抵抗勢力のやっていることは、まさにこの「自分の価値観の他人への押しつけ」に他ならない。


(03/10/03)

(c)2003 FUJII Yoshihiko


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