リーダーを育てる





昨今、株価が多少持ちなおしてきた分、ちょっと前まで蔓延していた「超悲観論」は山を越した感じがあるが、だからといって構造的な問題が解決したわけではない。状況の好転は、一部ではあるが問題を乗り越えた層が存在し、そういう人達が一歩抜け出したコトによるものであり、大多数は旧態依然とした守旧派・抵抗勢力のままである。この両者を分けているもの。それはその組織が、リーダーシップを持ち、ノブリス・オブリジェを果たせるリーダーに恵まれているかどうかにかかっている。これが今の日本が抱えている問題のルーツである。

日本においては、リーダーシップを持った人材が決定的に不足している。リーダーの器にないヒトが、肩書だけのリーダーになっている組織の、なんと多いことか。不足しているといってもいる所にはいるから、それなりに結果が出ている。こういうご時世でもパフォーマンスを上げている組織には、そこそこリーダーシップを持った人材がいるということだ。そもそも組織にとって一番問題になるのはトップに立つリーダーなので、見方を変えればこの問題は人材の偏在による「アンマッチング」と言うこともできる。

この数年、企業の不祥事が続発している。企業ガバナンス、コンプライアンスが問題にされているが、実はこの問題もリーダーシップを持たない人間がトップに立ってしまうことから引き起こされている。権力を持った人間が私利私欲に走れば、組織は腐る。トップは、人一倍自分を律することが求められる。自分で自分自身を律せない人が、組織を律せるワケがない。こういう不祥事は、リーダーシップ、リーダーとしての器のないヒトを、年功序列で責任ある地位につけたツケが廻ったもの、と見ることもできる。

80年代末から90年代はじめにかけて、アメリカではダイエットや禁煙ができないと、管理職として失格、と言われた時代があった。これはまさに、この「自分自身へのガバナンス」が、アメリカ経済の復興期に問題となった証左である。アメリカのやり方が良いかどうか別として、70年代から80年代にかけて傾いたアメリカ経済を立て直すには、少なくとも「自分を律せるリーダー」が求められていたこと、そしてそういう人材がポストについたからこそ90年代後半の復活があったことは確かだろう。

かつては欧米に「追いつき、追い越せ」が目標だったため、日本では、欧米の動向を過剰に意識するキライがあった。今はパラダイムが変ってしまった分、欧米が全てではないことは確かだ。しかし違う意味で「グローバル」を意識する必要が生まれている。それは、ローカルャンピオンでは意味がなく、ワールドチャンピオンにならなくては生き残れない時代になった点である。ワールドチャンピオンになるには、グローバルスタンダードに則っている必要がある。このグローバルスタンダードとは、必ずしも「欧米スタンダード」ではない。世界のどこでも通用することが必要なのだ。

これは、人材やその能力についても言える。グローバルに通用する能力とは、生まれつき人並みハズレた才能があるトコロを、誰よりも真摯な努力で磨いてはじめて通用するものである。日本の精神論だけの努力主義では、そういう人材は生まれない。持って生まれた才能のない分野で、精神論で努力だけしても結果は得られないからだ。自分の強みを自覚し、自らそれを伸ばす。これができて初めて、グローバルに通用する人材なのである。しかし、日本の組織においては、霞ヶ関の官僚組織が代表しているように、才能も努力も関係なくポジションが決ることがほとんどだ。

これを増長し、拡大再生産してきたのが、明治以降の日本の近代教育である。それは、悪平等と画一化により特徴付けられる。もともと、悪平等と画一化は、近代教育システムの本質としてある。それは、近代の教育システム時代が、産業社会の構造を前提に、工場制大量生産のアナロジーとして作られたからである。そういう意味では、近代教育である以上、どの国でもある程度はこの傾向をもっている。しかし、極端なまでにそこに「最適化」を果たしたのが、日本のシステムである。

しかし、日本の教育システムは、リーダーシップを持った人材を育成したり、才能を見つけそれを磨くチャンスを与えたりすることにおいては、全く持って無力だった。少なくとも、それは「追いつき追い越す」ことには効果的だったし、高度成長期はそれで済んだことも確かだ。だが高度成長が終わって安定成長となり、社会的に「追いつき追い越す」スキームが破綻しだした80年代以降、この矛盾は段々と明示的なものになってきた。だからこそこの時期から、学校の崩壊や教育の崩壊が起りだした。

スポーツや音楽、芸術といった領域は、一般に「才能」や「潜在能力」の違いが古くから認められていた領域である。必死に練習したからといって、誰もがイチロー選手や松井選手になって、大リーグで活躍できるワケではないことは、言わずもがなである。これがわからないようでは、それこそ「バカの壁」である。しかし、これが学校教育の現場となると、妙なコトが起る。単純な努力論、精神論の横行である。いわば、プロの能力論に対し、アマの精神論。なるほどプロスポーツ界と、アマチュアスポーツ界とが不仲なワケである。

とにかく、リーダーシップにおいては、「器の違い」を認めることが大切なのだ。リーダーも素質があり、それを自ら磨いてはじめてなれるものである。古くから「旅の恥はカキ捨て」「鬼のいぬ間の選択」といわれるように、日本の大衆は、江戸の昔から「無責任文化」の花盛りである。誰かが見ていないと、自分ではコントロールできず、すぐ無法地帯化してしまう。こういう人では、人の上に立ってリーダーシップを発揮することなど不可能である。

まさにこの問題も、結局「自立・自己責任」vs.「甘え・無責任」の構図に帰着する。リーダーシップもまた、「自立・自己責任」の成せるワザなのだ。これができてはじめて、大きなスケールのヴィジョンを持つことができ、人まねではなく、自分の良いところを知り、伸ばすことができる。他人の良いところは素直に受け入れ、不平不満の評論家ではなく、ポジティブに自分の問題としてモノを考えることができる。これができてこそ、過去と現在の自分を否定すること、そして新たな価値をクリエイトして前進することができるのだ。

これは、先週都内某所で行った公演の内容を要約したものです。

(03/10/17)

(c)2003 FUJII Yoshihiko


「Essay & Diary」にもどる


「Contents Index」にもどる


はじめにもどる