「枠」から出れるヒト





人間は百人百様、ヒトによって違いがあるが、持って生まれた才能は間違いなくある。それは自分では選べないし、ヒトによってその多寡もある。それでも、なんらかの才能を持って生まれていることは間違いない。これは、ここでモノを語るときの基本的な視座の一つなので、聞き飽きている向きもあるかもしれないが、またまたお付き合い願いたい。今回は、そんな持って生まれた才能の一つとして、目の前にある枠や制約とどう取り組むかというものがある、という話である。つまり、人間には「枠から出れるヒト」「枠から出れないヒト」が、先天的にあるということだ。

現実や常識とは関係なく、次々とアイディアやイノベーションが湧いてくるヒトがいる。その一方で、極めて現実的、常識的な、オーソドックスでハズレのない対応しか出来ないヒトがいる。これは、そもそも違うタイプの人間なのだ。どっちがどっちという、価値観や評価の問題ではない。野球の松井とサッカーの中田を比べてもはじまらないのと同じ。それぞれのタイプの中では、優劣をつけられるかもしれないが、タイプが違えば軸が違う。一つの軸の両端に「枠から出れるヒト」と「枠から出れないヒト」が配置されるのではなく、「枠から出れる軸」と「枠から出れない軸」は別途評価すべきものなのである。

これは、いわば原子力エネルギーと化石燃料の違いにたとえることができる。何年間も宇宙を孤立して航行する惑星探査衛星のエネルギー源に何を使うか考えてみよう。過去の例を見ると、太陽電池を積んでエネルギー源とするか、小型の原子炉を積んでエネルギー源とするか、どちらかである。どちらにしろ燃料を消耗してエネルギーを得るのではないエネルギー源が必要である。太陽のエネルギーも、突き詰めれば核融合に基づくものであり、いわば「原子炉」を内蔵型、外装型にするような違いである。

厳密に言えば原子力でも、E=mc^2で、質量がエネルギーに変っているだけであり、「無から有を生み出している」ワケではない。だが、こういう「宇宙の孤立系」的なシステムでは、古典物理の世界でのエネルギー保存則みたいなものに縛られていては対応できないということは間違いない。しかし、これはそもそも「孤立系」だからこういうエネルギー源でなくては対応できないし、だからこそ、評価される。従って前提条件が違うのなら、評価は全く変る。燃料補給が容易な環境で使われる飛行機や鉄道、自動車のような乗り物なら、何も中に永続的なエネルギー源を持つ意味はない。

当然、エネルギー源として化石燃料による熱機関を使った方が、乗り物としては簡便、かつローコストにできる。原子力を使うにしても、分散したエネルギー源とするより、一旦原子力発電所で、そのエネルギーを集中かつ大量に電気エネルギーに変え、それを配電して電車や電気自動車を走らした方が良いだろう。太陽エネルギーにしても同じ。太陽電池よりは、ハイブリッドカーや電気式ディーゼル機関車のように、熱機関を使った発電ユニットを乗り物自体に搭載した方が効率がいい。太陽電池にコダわるなら、「太陽エネルギー発電所」みたいなものを設置した方が効率が良いだろう。

要は、それぞれの世界の中で求められる要件があり、それにベストフィットする方法を取ればいいだけである。原子力がフィットしているところに、無理に化石燃料を使おうとしても、そもそも無理がある。しかし、だからといって原子力ならなんでもいいというものではなく、その中でベストな仕組みを考えなくてはいけない。その逆も同じ。化石燃料がフィットしているところに、原子力を積もうという発想が不毛である。これは、「枠から出れるヒト」と「枠から出れないヒト」においても、全く同じだ。異なるコンピタンスなのだから、そのミッションに対し、どちらが求められるのか、その中でどういうタイプが最もフィットするのか、それぞれ考えればいい。

そもそも、これはタイプの違い、能力の違いなのである。適材適所という視点を導入しても、差別でもなんでもない。その差を認めない方が、悪平等なのだ。もちろん、どちらが金になるか、とか、どちらがその時代において社会的に高く評価されるか、という点ではこの両者で損得の差があることも否定できない。だからといって、その違い自体を否定するのは本末転倒である。違うモノは、ちゃんと違うモノとして捉え、評価することが、真の平等に繋がる。マジメ一筋、アタマの堅さが売りモノというヒトでも、それが生きる場においてはキチンと評価すべきだ。

実はこれが出来ないのは、「枠から出れないヒト」の方の「高望み」に問題がある。自分の分をわきまえ、その中で生きて行くのなら、ある種の気高さとして評価できるのに、自分が持ってもいない、「枠から出れる軸」で評価してもらおうとするから、世の中がおかしくなるのだ。この点、「枠から出れるヒト」の方は、尊厳を持って生きている「枠から出れないヒト」を、不器用だけど堅実なヒトとして、キチンと評価する視点は確実に持っている。階級や階層とは全く別の、タイプや生き方の違いとして、「枠から出れるヒト」と「枠から出れないヒト」の違いを捉えられるようになることが、日本の社会が一歩成長できるかどうかのメルクマールなのだ。


(03/10/31)

(c)2003 FUJII Yoshihiko


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