この「時代」を生きるカギ






21世紀に入って3年目の今年も、もう11月。年の暮れが気になる時期となった。3年経てば、もう20世紀の延長でもないはずだ。実際、20世紀までの「近代」とは違う、新しい21世紀のパラダイムも、そろそろ見えるヒトにはくっきりと見えてきているだろう。今年の半ば過ぎから、「新しいカタチの景気回復」が語られだしたのは、その一つの現れである。その一方で、未だに新しい視座を持ち得ず、20世紀から抜け出られないヒトも多い。この違いは、そもそも時代や状況を見るときの立脚点の違いにある。いままでの常識や先入観、思い入れなどを捨て、まっさらな目で現実を捉えられるか。ここに分岐点がある。

「近代」にどっぷり浸って生きてきた我々は、「歴史の進歩」がリニアで非可逆なプロセスであるかのように思い込んでいる。しかし、我々は基本的には20世紀、今生きている多くの人間にとっては、それも20世紀後半の歴史しか体験していない。それ以前の歴史は、あくまでも知識として学んだモノである。事実が知識となるためには、当然編集行為が加わる必要がある。まさに「○○史観」といわれるように、その編集行為により歴史の解釈は大きく変る。そして、我々が学んできた歴史も、20世紀というフィルターを通したものでしかない。

「官僚に行政改革はできない」というテーゼではないが、近代に浸りきった人間にとっては、時代が近代を通りすぎてしまっても、しばしばそれに気付くことすらできず、文字通り前世紀の遺物となってしまった価値観から抜け出ることができなくなる。今の守旧派、抵抗勢力のモチベーションはまさにそれであろう。本人に主義主張があって、そういう行動を取るのではなく、それ以外やり方を知らないから、今まで通りのやり方を踏襲する。それが結果的に時代に逆行し、取り残される結果となる。それだけのことだ。

歴史は元来「なんでもあり」なのだ。時間が流れている以上、エントロピー的な意味で何らかの非可逆プロセスが進行していることは確かだと思うが、それは必ずしも歴史が一定の段階的に発展することを意味するわけではない。一定の方向を向いたリニアな変化をしていたのは、人類の歴史の中でも「近代」特有のものである。だから、マルクス主義でも、近代化論でも、一定の発展法則を規範として持つ歴史観は、極めて「近代」に依存した、「近代」特有の価値観ということができる。それは人類普遍の真理ではなく、近代社会という極めて限定された状況においてしか意味を持たない。

そもそも「近代」というスキームは、直接的には産業革命以降の200年、それ以前の準備段階をいれても、せいぜい3〜400年しか通用しないものだ。旧石器以降人類史10万年の中では、そんな時間は消費税分にもならない。誤差でしかない。確かにそれまでの歴史と違うことは確かだが、何千年かのち人類が生き残っていたなら、その時代の歴史家は、近代を特異点として捉えるだろう。均してみれば、そういう意味では、この2〜3世紀の出来事が特殊なのであり、そうでなかった時代にこそ、人類の歴史の本質があると考えるべきだ。

いってみれば、「近代」というのが人類史上の「バブル」なのだ。20世紀の最後、近代の最後をかざったのが、東西の文明の極地というべき、日本の、そしてアメリカのバブル経済だったというのは、なんとも意味深である。そしてバブル崩壊後いち早く発想を切り替え、フヤケきった贅肉をそぎ落としたものが、次の時代のチャンスをつかんだ様に、この人類史上のバブルヘの対応も、いち早く発想を切り替え、再び原点に戻ってリスタートを切れるかどうかがカギになる。

そういう意味では、経済システムとしての「近代」の成立と共に登場した政治やアドミニストレーションの仕組みも、同様に制度疲労を起こし使い物にならなくなっている。民主主義だ、平等だ、みたいな話も、たかだかフランス革命以降2世紀足らずの歴史しかない。同様に人権だ、自由だ、なんて話も、さかのぼれて名誉革命以降の産物でしかない。そんなモノは、人類の歴史にとっては一夜の夢のようなモノである。後生大事にするほど普遍性のあるものではない。そう思っていること自体、「近代」を絶対化し、その毒が廻っているのだ。

さらに国民国家という考えかたも、「近代」特有のものである。そこから派生する、統治・行政システムや、税の考えかた、国民軍や近代戦争みたいなものも、人類史上何ら普遍性はない。たかだか、この数世紀の「流行り」だっただけである。このように、人類社会において普遍的で絶対的と思っていたものの多くが、なんのコトはない、「近代」固有のアイテムに過ぎない。この「近代の相対化」ができるかどうかが、真の意味で「近代」を乗り越え、21世紀以降の人類社会のあり方に肉薄できるかどうかのカギとなる。当り前だが、「近代」を否定するのが恐い間は、近代より先に行くことはできないのだから。


(03/11/07)

(c)2003 FUJII Yoshihiko


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