気品は顔に出る






「何とかの宮」を語り、結婚式のご祝儀を騙し取るという詐欺事件がちょっと前に週刊誌を賑わせた。もっとも当人は「何とか」とだけいって「宮」とは言ってないと主張しているようだがそんなことはどうでもいい。どちらにしろ、マトモな人間からすれば、どう考えても怪しくウサンくさい仕掛けである。近づくどころか、避けて通るのが普通だろう。見るからに毒々しい猛毒の毒蜘蛛に、あえて近づこうとするヒトがいないのと同じだ。そういう意味では、近づいた人間のほうが、何らかの下心を持っているから近づくのだ。

日本では、「詐欺は、ダマしたほうが悪い」という考えかたがあるが、「自立・自己責任」の欧米では、「詐欺は、ダマされたほうが悪い」のである。もちろん、騙す途中で事実無根の「ウソ」を語ったなら、その範囲において騙した方の責任が問われる。しかし、言い方はどうあれ、そのトリックの種明かしとリスクの大きさをわかるヒトにはわかるように見せてさえおけば、騙した方には責任はない。ということは、騙されて腹を立てるのは、「甘え・無責任」以外の何物でもない。

そもそも詐欺事件というのは、そういうところがある。誰が見ても本当だと思うような用意周到な「虚構」では、カモは引っかからない。うまくカモを引っ掻けるには、ちょっと怪しく、ちょっとウサンくさいほうがいい。ダマされるほうの欲の皮が突っ張っているところにウマく共鳴するからだ。M資金でも、詐欺商法でもマルチ商法でも、これは同じである。田舎の温泉場の色街で上品な店をやっても流行らず、いかにも怪しいドハデなピンク色のカンバンの方が客が入るようなものだ。

極めて巧妙に作られた詐欺でも、こういうヒトは引っかかるかもしれない。だが、そこまでやってしまうと、ダマされた方もハナから信じてしまい、ダマされたとさえ思わないのかもしれない。また普通のヒトもダマされる位のスケールでやろうとすると、準備にコストがかかりすぎてしまい、詐欺商法ではなく、真っ当なビジネスになってしまう。マルチ商法の「夢」は詐欺になるが、ディズニーランドの「夢」は、いくら虚構とはいえ詐欺にならないのと同じだ。

人間には元々リスク好きなヒトと、リスク嫌いなヒトがいる。リスク好きなヒトがいるからこそ、ギャンブルがビッグビジネスになるし、株式市場では同じ局面で売りと買いの両方のニーズが拮抗して取引になる。詐欺で騙されるということは、リスク好きな人間が、敢えて火中の栗を拾いに行き、ヤケドするようなものだ。だから騙された人間も、心のどこかでは「ヤケドするかもしれない」と思っている。所詮は自業自得ということになる。

そういえば件の「宮」の詐欺でも、騙された「参加者」はどことなくウサンくさい連中ばかりではないか。類は友を呼ぶ。ワイドショーとかでこの事件の報道を見たヒトの中でも、そう思ったヒトはけっこういるだろう。そのウサンくささはどうしてわかるのか。それは、ある種の人格や徳の有無である。では、それはどこで見分けられるのか。それは顔つきや全身から発せられるオーラというか、存在感そのものである。いかに立派な格好をしても、気品のないヒトはセコいオーラが出る。逆に気品のあるヒトは、どんなに隠しても、どこからか後光が射してくる。

20世紀末の日本は、何と言っても「悪平等大衆社会」の権化であった。ヒトは基本的に平等であり、同じ権利を持つということが、無条件に金科玉条のごとくに前提とされた。タテマエとしてはそうされていたが、実際に全てのヒトがそう行動していたかというと、それは違うだろう。ヒトに違いがあることは、わかるヒトにはわかっている。だからこそ、なんか怪しいヒト、なんかウサンくさいヒトというのが、臭ってくるし、それが嗅ぎ分けられるヒトには嗅ぎ分けられるのだ。

こういう気品は、後天的な努力でどうなるものではない。生まれたときから備わっているヒトには備わっているし、ないヒトにはないのだ。所詮、子供は親に似る。蛙の子は蛙、鳶は鷹を生まないである。下品な親からは下卑た子供しか生まれない。生まれたての赤ん坊でも、激しい気品の差がある。人品卑しき人間は、いくらがんばったところで、気品の後光は射してこない。それが社会の摂理というもの。逆らってもはじまらない。それを素直に受けとめられることが、あたえられた人生を一番有意義に過ごすことに繋がるのだが。


(03/11/21)

(c)2003 FUJII Yoshihiko


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