ヒトの違い






20世紀は、まさに「近代」がゆきついた究極の時代であった。機能性と効率性を追求したそのパラダイムは、「組織の時代」だったということができるだろう。我々自身も、そのような時代に生を受け、教育や経験を重ねてきた。だからこそ、20世紀的な「組織」感が、色濃く染みついている。だが21世紀は、ヒトの時代なのだ。組織が存在する前に、一人一人の人間のアイデンティティーが存在する。元来、人間社会とはそういうものだったはずだ。その意味では、組織中心の近代こそが、人類史的には異常な状態だった。

このような環境変化がある以上、いままでのような「はじめに組織ありき」の考えかたではついて行けていないことは明白だ。成功も不幸も、組織任せ。個人の責任が問われることはない。特に近代日本においては、このような組織主義の考えが強かった。これは日本社会の伝統的な無責任主義と、近代の組織文化が融合したものである。まさに「甘え・無責任」が罷り通ったのは、組織の時代だったから。これからは、一人一人がリーダーシップをとり、「自立・自己責任」で行動しなくては成果を得られない理由はここにある。

このように、成功するか失敗するかとの分け目は、全てはヒトに帰着する。ダメなヒトは何をやってもダメ。逆に、才能を持った人間は、それを磨く不断の努力を怠らなければ、成功を自らのモノとするチャンスが与えられる。ダメな人間が、ちゃんとしたヒトが成し遂げた成功の分け前をちゃっかり受けようと思っても、そうは問屋がおろさない。ちゃんとした人間ばかりの組織であってはじめて、1+1=2以上のシナジーが生まれる。「ハコの中の腐ったリンゴ」ではないが、ダメなヒトが一人でもいれば、その組織はダメな組織となる。

そういう意味では、ダメなヒトがいる限り、企業の再生は不可能だ。「甘え・無責任」の人間を抱えた組織では、活性化することは難しい。だがそれは、逆にヒトを入れ替えてしまえば、組織や施設の活用はいくらでも可能なことを意味する。組織を考えたとき、固定されているものは何か、そして変えうる変数は何か。この両要素が、今までと大きく変ってきたのだ。はじめにヒトありき、はじめに組織ありきではない。戦略、ミッションがあって、それに合わせてダイナミックに編成する結果が、組織なのである。

このように、ヒトの時代だからこそ、ヒトが最大の変数となっている。企業に限らず人間組織は、基本的に生モノである。かつて「ヒト・モノ・カネ」といわれたように、組織はスタティックに定量的把握できるものと思われていた。だがそれで把握できるものは、生の組織ではない。あくまでも死んだ組織を標本にして観察しているものでしかない。不確定性原理ではないが、生きたままの状態では、組織は把握できないのだ。その組織の本質を把握しようと思えば、そこにいるヒトのポテンシャルを把握し、それで測るしかない。

ギャンブルのオートレースでは、主催者側が準備し、与えられたマシンで競う。その結果、基本的に仕組みの側に差があるのではなく、あくまでもそれを扱うヒトの実力や試合運びの違いが差となって現れる。今や企業組織とは、まさにオートレースで与えられるマシンとコースのようなものになっている。それを分析し解析してみたとしても、そこからは何も得るものがない。企業組織のハード的な要素は、所詮そんなものである。違いが生まれるのはそこではなく、その上に乗っかるヒトの部分からなのだ。

Aさんが何度やってもウマく行かなかったことが、Bさんがやったら一発でウマく行ってしまうことも多い。「余人を以て変えられない」とはこのことだ。リーダーシップに関しては、もっとハッキリしている。スポーツでは、ほぼ同じ戦力でありながら、監督が変るだけでチームの戦績が極端に変ることも多い。戦場でも、司令官の出来・不出来の差が、戦力の絶対的な差を越えて、劣勢の部隊が勝利を収めることもしばしば見られる。これからは、あらゆる領域でこういうことが起る。

相変わらず、「プロジェクトX」の人気は続いている。あの番組が極めて20世紀的なのは、一兵卒にしかスポットライトを当てないからだ。実は、兵隊は代替が効く。兵士の技量が戦果に貢献することは間違いないが、同等以上の技量の兵士がいれば別人でも済む。それに対し大事なのはリーダーシップである。その用兵をしたリーダーがいるからこそ、その一兵卒の持っている技量がいきるのだ。一兵卒の視点で、一兵卒の技量を問うても始まらない。そのことがわからない人間には、21世紀を生きる資格はない。

(03/12/05)

(c)2003 FUJII Yoshihiko


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