犬のしつけ






先般テレビを見ていたら、とある番組で「動物のしつけ」の特集をやっていた。その中で、「犬のしつけ」についてはかなり時間を割いて紹介していた。飼い主の言うことを聞かない「ワガママな犬」について、視聴者から選ばれた実際の例をあげていた。そして、そういう手におえない犬も、訓練のプロの手にかかると、たちまち手なづけられてしまうシーンを見せていた。プロにはできる。これでわかることは、問題の本質が「犬が言うことを聞かない」ことではなく、「飼い主にしつけができない」ことということだ。

実際、犬を飼っていても、ちゃんとしつけができないヒトが増えているという。しかし、そのプロの言によれば、犬のしつけはそんなに難しいことではない。犬は、アタマの中で上下関係を理解している。だから、「飼い主は犬より序列が上」というヒエラルヒーを、キチンと犬に示してやれば、それ以降は飼い主の言うことをキチンと聞くというのだ。飼い主が一人ならもちろん、飼い主が上で、犬が下という関係は容易に理解できるだろう。それだけでなく、飼い主の家族全体の中での順序もキチンと理解できるという。

通常は、親がいて、その下に子供がいてという序列があれば、その下に犬がいる、と認識する。従って、たとえばいつも子供が犬の相手をしていても、その子供より上位にある親がたまたま犬に命令しても、ちゃんと言うことを聞く。余談になるが、だからこそとほほな現象も起る。妻からも娘からも粗大ゴミ扱いされる「うだつの上がらないおとうさん」は、日本の家庭にはよく見られる。こういう家庭で飼っている犬は、母・娘の命令はちゃんと聞いても、「おとうさん」の命令には従わない。それは犬にとっては、「おとうさん」は自分より下の位置付けと認識しているからというのだ。

このように、最近「犬のしつけ」がウマくできないヒトが多い理由としては、この「順序」に対して曖昧な家庭が増えていることがあげられる。そもそも人間自体が「席次」に無頓着になっている。というより、実はあえて「席次」から目をそらしたがるヒトが多いのだ。「一億総中流」と呼ばれる悪平等社会。それは、実は物質的に豊かになっても、ヒトとヒトの間には、埋められない差異があるからこそ、それに目をつぶってしまおうとする社会である。実際にある「順序」をあえて否定する。だからこそ、悪平等のヒトには「犬のしつけ」はできない。

さて、そこで問題になるのが「団塊世代」のモチベーションやメンタリティーである。高度成長の申し子といえる「団塊世代」。彼らはジャーナリズム的には「全共闘世代」として語られることが多い。しかし、それは虚像である。団塊世代の大学進学率は、まだ1割台であった。まだ大卒がエリートであった時代だ。学生運動ができたのは、彼らの世代では一部のエリート層だけなのである。ここにマインド的に自己同化してしまう点も問題だが、では、彼らの大多数はどういう人たちなのだろうか。それは「集団就職世代」というのが正しいだろう。

彼らの生まれた昭和20年代前半は、戦時中の疎開や終戦後の引き上げ等も影響し、農村人口が全体の7割を占める時代であった。それが、そのまま農村にとどまって後を継ぐのではなく、人口大移動を引き起こした。すなわち、高卒後、都市部の大企業に就職し、主として製造業の工場でブルーカラーとして働く。これが彼らの典型である。そして、郊外のニュータウンで、核家族を形成した。ここで注目すべきは、彼らがまだ大家族制の残っていた農村で生まれ育ち、そのメンタリティーを強く刷り込まれている点である。

農村共同体的メンタリティーの特徴の一つとして、個人の存在やアイデンティティーが比較的希薄な点がある。ヒエラルヒーという意味では、世代的な大きいくくりは歴然とあるものの、個人間の序列はそれに比べると曖昧である。これは大家族制の特徴でもある。それがそのまま団塊世代に刷り込まれている。だが、彼らは大家族ではない。核家族なのだ。そこでは、序列そのものが否定される。友達夫婦、友達親子と呼ばれるベタな構造には、実はこういうルーツがあった。そしてだからこそ、この農村共同体的メンタリティーは、ミームとして団塊Jr.にも受け継がれている。

しかしよく考えてみると、組織の中での序列を明確にし、それをわきまえることは、人間の教育においても同じように重要である。犬のしつけだけではない。人間の器を大きくするには、分をわきまえることが前提になる。ヒエラルヒーを否定してしまっては、器を大きくしようがない。昨今、教育の問題がいろいろ言われているが、突き詰めてしまえば、この問題は、「ヒエラルヒーを認識しない・できない親には、子供をしつけることはできない」という一点に行きつく。だから団塊Jr.世代が学童年齢に達すると共に「教育問題」が起ったというのも、決して偶然ではない。

「ヒトの序列」を見て見ぬ振りをするがゆえに、犬のしつけもできない悪平等指向の団塊世代。そもそも彼らに、人間のしつけなどできるワケがない。それは、農村共同体あっての農村大家族メンタリティーしか身につけていないにもかかわらず、それで核家族を作り、都会で生活できると思い上がったことに起因する。日本をおかしくしたのは、この「甘え・無責任・受動的」な悪平等主義者たちである。もはやシニア世代に入りつつある彼らに、今から「背筋を正して直せ」といっても、所詮は無理だろう。とはいうものの、せめて「器のある人間」と「器のない人間」との間のヒエラルヒーぐらいはわきまえて欲しいものだが。



(03/12/19)

(c)2003 FUJII Yoshihiko


「Essay & Diary」にもどる


「Contents Index」にもどる


はじめにもどる