ジャパニーズ・ドリームからジャパニーズ・リアリティーへ






日本は、すでに悪い状況を脱している。それは、わかっている人にとっては、もはやわかりきった事実だ。未だに、景気が悪いとしか言えない、過去しか見れない後ろ向きの人間もいるにはいる。しかし、それは自分が負け犬だからであって、日本が悪いわけではない。自分の力で過去と決別し、新たな可能性を打ち開いている人たちも大勢いる。そちらこそが、今の日本のリアルな姿であり、いつまでも過去のノスタルジーから抜け出られない人たちの方こそが、夢見心地から抜け出られないでいるだけなのだ。

「甘え・無責任」で受動型の人間でも、「寄らば大樹の陰」で大きい組織の中に埋没していれば、クリエイティブで付加価値の高い仕事をせず、単純な労働集約的な作業をしているだけで仕事をしている気になれ、それだけでなく、そこそこの生活ができてしまう。右肩上がりの高度成長期ならではの、このような「生き方」は、その一方で「一億層中流化」という名の生活面での社会的悪平等を推進し、超大衆社会を作り上げた。この生き方こそ、まさに20世紀の「ジャパニーズ・ドリーム」であった。

それは、「甘え・無責任」な人間にとっての理想社会とも言える。しかし、よく考えてみればそんな社会が長続きするわけがない。祭の日にはみんなに酒が振舞われるが、それは祭が特別な日だからであり、一年365日、いつでも酒が振舞われるわけではない。この事実に気付かずに、「酒はタダで飲めるもの」と思い込んでしまうのは、返すアテを持たないまま、クレジットカードでの買い物やサラ金からの借入を繰り返すようなものである。「ジャパニーズ・ドリーム」とは、そもそもこのような「バブル」の賜物でしかない。

また、こういう歪んだ社会状況の中で広まってしまった信仰に、「競争」は無条件でフェアであるというものがある。確かに、ある条件が整った場合、競争原理が働くことがフェアな結果を導くことは事実である。しかし、そもそも競争には「良い競争」と、「無駄な競争」があることを忘れてはならない。そもそもチャンスも勝ち目もないのに、運を天に任せて競争に参加するのはエネルギーの無駄以外の何物でもない。しかし、高度成長に酔いしれた20世紀日本人の多くは、この一番基本的な原理を忘れてしまっている。

特に、高度成長の申し子とも言える「団塊世代」は、同世代の人数が圧倒的に多かっただけに、いつも競争的状況にあり、競争が大好きという悪癖を持っている。とにかく彼らは、そこで競争が行われていると、つい参加したくなってしまうのだ。これは、そこに行列があるとつい並んでしまう「団塊Jr.」の性癖と好一対である。人が多いところに、なにか面白いこと、オイシイことがあると直感してしまうのだろうか。なにかにつけ群れたがるのである。

ということは、彼らの競争は、「競争の中から一人が勝ち残って、果実を総取りする」という、本来の意味の競争、良い意味の競争を指向していないことは明白である。勝つための競争ではなく、分け合うための競争、傷を舐めあうための競争なのだ。これが、ジャパニーズ・ドリームを支えてきた、悪平等的な競争の本質である。こういう意識下の理念に基づいているからこそ、チャンスも勝ち目もない競争であっても、参加すれば「参加賞」ぐらいは手に入るという、歪んだモチベーションが正当化されてしまうのである。

これが何を生み出したか。それは「自分の実力や能力を客観的に捉える」コトからの逃避である。本当の競争が行われ、一人の勝者が選ばれるのであれば、自分の能力や立場を客観的に捉え、強み・弱みを分析し、勝機があるかどうか、それを捕まえるにはどういう戦略を取ることが必要かを考えることは必須である。当然、勝機のない競争に参加するものはいない。自分に勝機があるとするならば、それはどういう局面なのか。それを知らずしては闘いようがない。

だが、「無駄な競争」が横行する限り、そんな必要はない。そもそも競争への参加は、勝つためではなく、参加賞のためなのだ。それを繰り返しているうちに、自分の程がわからなくなり、「もしかしたら」という一攫千金の高望みさえするようになる。それが20世紀の日本の実像だ。虚言癖の人にとっては、自分がなれもしない、できもしない虚像も、何度も嘯いているうちに、自分自身が信じてしまうようになる。まさに、高度成長期の日本人はそれである。自分がなんたるかも知らず、ひたすら夢見、背伸びをする。

そんな時代は、もう終わりだ。自分を知る。分をわきまえる。そこから全てがはじまる。ある意味で、今の20代以下の層の方が、自分の能力や可能性をよくわきまえて、高望みせず行動している分、期待が持てる。問題は、その親の層の方だ。そもそも「鳶は鷹を生まない」し、「蛙の子は蛙」である。自分にできないことを、子供に期待しても無駄だ。自分の能力すら見極められない人間が、子供の教育などできるわけがない。中流意識に浸ってきた人たちが、これからも生き残れるかどうか。それは、自分のリアルな姿を直視できるかどうかにかかっている。

二流の人間なら、自分が二流であることを自覚し、二流の人生を選ぶべきである。三流の人間なら、同様に三流の人生を選ぶべきである。決して背伸びして一流を目指すべきではない。なれっこない一流を目指して挫折し、人生を無駄に過ごすより、自分に与えられた天命を自覚し、それを全うするほうが余程幸せになれる。それが「分をわきまえる」ということであり、自分が本来得られるべき幸福を手に入れることに繋がる。高望みをするな。与えられたものの範囲で、つつましく暮らせ。これが21世紀のオキテなのだ。



(04/01/09)

(c)2004 FUJII Yoshihiko


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