死刑の基準








極悪犯に対する裁判の判決が出るたびに、死刑の執行に対する賛否の議論が盛り上がる。なんかのきっかけがあればたちまち盛り上がるが、喉元過ぎると全く省みられなくなってしまうという、いかにも日本的な情景だ。しかし議論になったときはいつでも、そもそもこういう議論において最も重要な論点であるはずの「なんで死刑を求刑するのか」という議論が欠けた、まったくの感情論に終始してしまうのも、なんとも日本的である。死刑か、無期刑か、あるいはアメリカとかである懲役200年とか言う事実上の「出られない有期刑」か。それぞれ、求刑される以上は、それにより期待される「効果」があるはずである。理由がなければ、その得失も評価できない。

伝統的に日本の刑罰においては、なぜか「更正させる」という視点が色濃く現れている。真人間にさせて社会に返す、というおこがましい発想である。しかし、そもそも刑に「更正」という視点を持ち込むこと自体が間違っている。犯罪を犯す人間は、そもそもその人間性の中に、「犯罪を犯す」という性格がビルトインされているのである。それは、先天的な「才能」として埋めこまれている場合もあるだろうし、ミームや経験の中から後天的に刷り込まれた場合もあるだろう。しかし、それは非可逆的に焼き込まれた「人格」である。そもそも、それは「更正」可能なモノなのだろうか?

いわば事故的に、うっかり人を殺めてしまうということもあるにはある。確かにそういう「犯人」の場合は、「更正」という視点に立ち、再び社会で受け入れられるようになるチャンスを与えること、そのために反省の機会を与えることも重要である。かつて、食うや食わずの時代には、そういう犯罪が多かったことは確かだ。そういうみんなが貧しかった時代ならいざ知らず、豊かさが飽和した現代では、重罪を犯す人間は、ほとんど確信犯である。ある種、わかっていて犯罪を犯しているのである。こういう人間は、そもそも人格的に反省などしようがないし、更正できるわけがない。それならば、そういう人間をターゲットとした処罰の体系を考えるべきである。

実は「死ぬ」ということは、実に安易なコトなのだ。たとえば「死んでお詫びをする」というのは、実は極めてイージーで無責任な解決法である。「死人に口無し」ではないが、死人には責任の取りようがない。死んでしまえば、責任はウヤムヤになる。死にさえすれば、責任は取らなくていい。「甘え・無責任」な日本人にとっては、これほど楽でオイシイやり方はない。だからこそ、責任を取らされそうになると、自殺に逃げてしまう人が昔から後を絶たない。生きて、一生涯かけて責任を取る、という重圧や苦労を考えれば、なんともイージーである。

そもそも、未練たらたら。タラレバで、もっとオイシイ生き方もあったんじゃないか、ととなりの芝をうらやむ人でなければ、死ぬことはなにも恐くない。基本的に、今までの日本では、こういう「となりを気にする」ヒトが多かったからこそ、死刑が「抑止力」を持っていた。しかし、その人が自分の生きてきた人生に満足していれば、死ぬことはさほど恐くはない。そういう意味では、死刑の抑止力は本質的なものではない。抑止力をして考えるなら、死ぬことと、大怪我をして一生後遺症が残り苦しんで生きることと、どっちが辛いかを考えるべきである。死ぬは一瞬、苦しむは一生。辛いのは明からに、苦しんで生きる方である。

ということは、犯罪者当人にとっては、そもそも「死刑」はいたって楽な道ということになる。実際、最近では自ら死刑を望む凶悪犯も増えている。これでは、悪人をこの世から物理的に抹殺するという機能はさておき、「死刑」には、更正力も抑止力もない。犯人に責任を取らせるという視点からは、当人がなるべく長い間苦しんだ方が良い。生かさぬよう、殺さぬようという、苦しみに苦しむ状態の中で、永遠にもがき苦しむことになる。罪に対する罰としては、余程その方が効果がある。犯罪抑止効果も、その方が高い。

一方視点を変えて、殺人事件の被害者の家族にとって、「復讐」という意味では何が効果的かを考えてみよう。死刑を執行し、犯人を殺してしまったのでは、その瞬間は達成感は高いかもしれない。しかし、その時点で犯人とのインタラクションは一瞬で終わってしまう。それで、恨みが解決するのだろうか。恨みを晴らすという意味なら、犯人に対し、苦しみもがきながら、死ぬに死ねない状況が何年も何年も、賽の河原の石積みの様に続くほうが余程いい。恨みというのは、そういうものである。何年も何年も、じわじわと苦しめ、悩ませてこそ晴れるのだ。

だから、一生に渡って犯人を呪い、もっと苦しめ、もっと苦しめ、という状況になってこそ、恨みも晴れるというものである。死ぬことの辛さは、将来に関するオプションというか、可能性が絶たれることだけである。だから一部の小市民は、死ぬことが恐い。そこから、死刑が抑止力になるという発想が生まれる。しかし多くの犯罪者は、そもそも小市民的な性格ではない。「死ぬのは覚悟の上」なのだ。死刑になっても、それはそれで気楽なものである。それを知ってまで、被害者の家族が死刑にして気が晴れるのだろうか。

そもそもこういう誤った発想をなくすためにも、やはりもっと一人一人が「死を恐れない」社会にすることが重要である。明日に期待して生きてはダメ。今を幸せにすることの方が大事。そうなれば、誰も死を恐れなくなる。世の中は、ハイリスク、ハイリターンになった。リスクを取らないモノには、リターンはない。右肩上がりの無責任な高度成長期とは違うのだ。現在価値に割り引くときの利率は、多くの小市民が思っている以上に高いのだ。だから、「明日の十より、今日の一」ということになる。この発想こそが、日本が変るための大きな引き金になっている。



(04/01/23)

(c)2004 FUJII Yoshihiko


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