団塊世代、団塊Jr.とカウンターカルチャー






去年あたりから、またぞろ60年代から70年代にかけてのアンダーグラウンドな「文化」が、ホットな脚光を浴びている。その頂点の一つが、昭和10年生まれの寺山修司氏が率いた「天井桟敷」だったことからもわかるように、60年代のエネルギッシュな「文化」を生み出したのは、戦中世代が中心となっていた。メジャーに対してのマイナー、常にエッジを追い求め、ボーダーラインを疾走する。今に語り継がれる伝説のエネルギーの秘密は、物心ついてから軍国少年として戦争を体験し、終戦と共に一気に価値観が転換した虚無の体験が生み出す、その世代のパワーにあった。

その活躍の範囲、生み出した文化は、演劇、映画、音楽といったアート領域はもちろん、デザイナー、カメラマン、編集者といった、ソフト的な仕事全てにおよび、その足跡は、まさにカウンタ「カルチャー」と呼ぶにふさわしいほど、エスタブリッシュされた「文化」に対抗するがごとく広範に及んでいた。60年代においては彼ら、彼女等が主にプレーヤーとして登場したのに対し、団塊の世代は、まずその主たるターゲット、サポーターとして登場した。そして、70年代が見えてくると団塊の世代もまた、プレーヤーサイドでも活躍するようになった。

いままで、しばしばこの両世代は同一視され、60年代から70年代の「アンダーグラウンド」カルチャーとして、一連の文脈で語られることが多かった。特に、80年代に最初に起った「リバイバルブーム」以降、60年代70年代の主役以下の世代がこの時代を語るときに、この混同が多く見られる。また、団塊の世代から発信される情報は情報量が多いだけでなく、数が多いだけに「我こそはアンダーグラウンドの主」というメッセージを含むものが多かった。これが、この混乱に拍車をかけた。しかし、この両世代の間には、本質的な構造の違いがある。

60年代のカウンターカルチャーを支えた世代で、実際に活躍したクリエーターたちは、本質的にマイナーなエッジを好む。常にフロンティアを求め、より際へ際へと、常に新たなチャレンジを繰り返した。だから、ひとたび「アンダーグラウンド」の領域にあったものがメジャー化すると、そこからサッと手を引き、より尖鋭で前衛な領域へと突進する。トンがったモノ、斬新なものの飽くなき追求。この行動様式こそが、この時代の文化のパワーのヒミツだったといえるだろう。

それに対して団塊の世代は、この世代特有の「数のパワー」で、元来マイナーだったところを、自分たちにとってメジャーなものにしてしまう。自分たちの力で、メジャー化することを、ある種のライフワークとしているかのごとき感さえある。もちろん「カウンター」ではあるので、世の中一般の常識としてのメジャー化を好むわけではないが、自分たちの世代でのメジャー化は大歓迎なのである。そして、団塊の世代の中でメジャー化すれば、それは充分、世間的にもメジャーと呼べるだけのヴォリュームを持っているのだ。

この団塊の世代に特徴的な行動様式ゆえに、カウンターカルチャーが、「カウンター」たりえなくなってしまうという問題が起こったのだ。ここで論じているカルチャームーブメントが起り始めた60年代においては、音楽にしろ演劇にしろ、メジャーとアンダーグラウンドは歴然とその土俵が違った。ターゲットもビジネスモデルも違っていた。ところが、団塊世代が顧客のみならずプレーヤーとしても主役になってくる70年ごろを境に、カウンターカルチャーのメジャー化が起り出す。それは音楽でも、ファッションでも、あらゆる領域で顕著である。

確かにこの頃は、ニューヨークでもロンドンでも、カウンターカルチャーのポップカルチャー化という傾向は、多かれ少なかれ世界的に見られた。それは、どちらかというとエスタブリッシュの側が、新しいテイストとして、かつてのカウンタカルチャー的な文脈を取り入れたことによる。だから、カウンターの側とメジャーの側の対立構図自体はそのまま残っていた。しかし、日本ではちょっと違う。

カウンターカルチャーの中心が、団塊世代に移ると共に、中にいる人間自身が、その群れる力を利用し、そのままのモデルを「自分達にとってのメジャー」化する方向を目指したのだ。その結果、そのヴォリュームゆえに「カウンターカルチャーのメジャー化」が起った。これは、極めて特徴的なことである。この傾向は、また、60年安保と、70年安保の違いにも現れている。60年安保に象徴される学生運動、オルタナティブを求める運動であった。実際の政治性が極めて高かった。だからこそ、ある程度の社会的支持も得られ、大きな影響力も持ち得た。

しかし70年代安保は、60年代の学生運動のある種のパロディーとしてこそ捉えられるもの、その実体は、理念よりこの世代特有の「群れる力」の発露であった。その世代の学生達の内部では、それなりに影響力もあり、マジョリティーのオピニオンとしての存在感もあったかもしれない。しかし、そこに彼らの求心力が強く働きすぎた分、社会的な支持や影響力は得られなかった。あくまでもキャンパスの中の嵐であり、街に飛び出しても、世の中の大勢を捕まえることはなかった。だか、それでもそれなりに「時流」たり得たのは、あくまでも団塊の世代の「スケール」のなせるワザである。

実は、この60年代末から70年代はじめという時代。ぼくらは、ガキながらリアルタイムで体験していた。今だから告白するが、実は体験していたものの、この両世代の違いがわからなかった。その責任は重いことは自覚している。カウンターカルチャーのメジャー化を否定しなかったばかりでなく、その尻尾にまで乗ってしまった。それらの顧客となり、メジャー化を推し進めることに貢献するだけでなく、「メジャー化」がパラダイムシフトであるかのように思い込んでいた。結果もたらされたものは、文化としてのパワーの衰退でしかなかった。

さて、因果は繰り返すと言うか、実は団塊Jr.の世代でも、コレと同じようなコトが起きていた。たとえば、彼らは「インディーズ」という文化を消してしまった。団塊Jr.によって、インディーズは単に「売れないメジャー」でしかなくなった。彼ら・彼女らは、群れたがるし、群れずにはいられない。そこに多くのヒトが群がり出すと、それはもはやマイナーなままではいられない。かくしてインディーズはメジャーと同じ方法論をとっていても「売れない」という、中途半端なメジャーと化してしまった。その数のパワーが、マイナーなものも、メジャーにしてしまう。親子で、日本におけるカウンターカルチャーの火を消してしまった、世代的な責任は大きい。つくづく因果なものである。



(04/01/30)

(c)2004 FUJII Yoshihiko


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