捨てたモンじゃない





日本人ほど、自らを論じたり、規定したりすることの好きな人たちは、世界の中でも珍しいのではないだろうか。また、他人から論じられるのも大好きである。かくして、よきにつけ、悪しきにつけ、「日本人論」は巷に溢れている。ところが、実はその多くが、必ずしも的を射ているとは思えない議論を展開している。それは、日本人の好きな日本人論は、比較文化論的なモノではなく、自分で自分の特徴と思う点が強調されているモノに限られるからだ。だから、国際比較してみると、日本人はどちらかというとその傾向が弱くても、自分で気になっている点は「特徴」とされてしまいがちである。

そういう勘違いを招きやすい点の一つに、「家族」がある。家族主義の傾向が強い東アジアの中では、日本の「家族」のあり方は極めて特異である。アジアの中の日本、世界の中の日本というポジションを考える上で、実は重要なポイントになるのが、この家族観の違いである。東アジアの国々の家族のあり方と(これも国ごと、地域ごとに違うのだが)、日本の伝統的な家族のあり方は、ある意味で全然別物である。およそそのワリには、日本人の家族観を「農耕民族の代表例」的に規定してしまう日本人論のなんと多いことか。

そもそも家族主義とは何か。身内と身外の間の「落差」があるのが、家族主義である。身内に甘く、身外に厳しい。これが家族主義である。身びいきが強い分、仲間意識。団結力が強い。家族主義が規範となっている社会では、この「ウチとソト」というボーダーラインが、本当の家族にはじまり、地域や同族といった縁として、何重にも重ねられることになる。この意識は、伝統的な集団だけでなく、企業や国といった近代になった移入された組織でも、その構成原理として受け継がれている。

その一方、日本に目を転じてみると、組織の構成原理としては、そういう明解な絆があるワケではない。それは日本が家族主義でない証拠でもある。組織の人間関係としては、実は「着かず離れつ」的距離感が基本となっている。濃厚な人間関係があるようでいて、他人への深いコミットを避ける行動様式。その証拠に、親戚でも運命共同体ではなく、陰で悪口や噂話をするのが当り前ではないか。これが日本の家族の特徴であり、社会の特徴ということができる。家族主義が深く根を張った文化に比べれば、家族も社会も「ほどほど」の絆なのである。

そう考えていくと、は日本の社会というのは、実はけっこうドライである。かつての農村部のように大家族制を取っていても、家族主義ではない特殊な大家族と言うことができる。江戸時代の商家は、擬似的に「イエ」の形態を取っていても、実質的には「資本」を維持し拡大してゆくための合目的的組織であった。農村部の大家族も、その線でいうと、実は農業生産を維持し拡大して行くための、合目的的組織としてできあがっていたと考えた方がいいのかもしれない。大家族は子供の教育でも、共同作業への参加に関しては厳しく対応するが、いわゆるしつけについてはほとんど無関心というのも、そういうことなのだろう。

このように日本の社会は、実は決してウェットではないと考えられる。来るモノは拒まないけど、去るモノも追わないのだ。いわゆる村八分も、差別、イジメと取れる面もあるが、村十分として共同体から追放するのではなく、あと二分が残っているというところに「勝手にやってくれる分には構わない」というニュアンスが感じられる。いい意味で、「冷たいところは冷たい」のが日本の社会の特徴である。出る杭は叩かれる、というものの、ウチ・ソトの明解な社会のように、異質なものを徹底的に敵視して叩き潰すのではなく、コミットさえしなければそれで済ませてしまうのが、「日本的」なのだ。

さて、そうだとすると、これはそんなに悪い話ではない。視点を変えれば、こういう性癖である以上、既存の集団の既存のドメインをそのままにしておくのなら、その外側で何をやっても、既存の人たちは無関心だ、ということになる。いわゆる「この指とまれ」理論は、実に日本の社会にフィットしている。やりたいヒト、やる気のあるヒトは、自ら「村八分」化して勝手にやってしまえば、誰も干渉しない。残ったヒトは、勝手に「ゆで蛙」になってしまえば、それで一見落着。実際、日本の歴史を振り返ってみれば、パラダイムシフトは、いつもこういう形で起ったコトに気付く。

さて、いつも言っているが、リーダーシップが取れるヒトと取れないヒトとの間には、人間の資質に差があるし、人間の類型としても違う。その一方で、日本においては、リーダーシップを確立することに関して、組織としてのフォローがない。リーダーシップを取れるヒトが現れてくれば、それはそれで受け入れる。だが、リーダーがいなくても、それはそれで「鬼のいぬ間の洗濯」として好ましい状況となる。かくして、日本にはリーダーシップのある組織とない組織が、偶然性の産物として並存することとなる。

このため日本では、引き締めが行きすぎて揺り返しがおこり、今度は余りにハチャメチャになってまた引き締めが起り、という定見のない「ダッチロール」を繰り返すという現象が随所に見られることになる。コレは別に今にはじまった問題ではない。江戸時代の「改革」を見ていれば、「昔の田沼今ぞ恋しき」ではないが、引き締め、緩和、引き締め、緩和、と揺り返しを繰り返していることに気付く。その時代から、本質は変っていない。組織全体の統一性の追求や、最適化が行われない。

だったら、全体のことなど考えなくていいハズだ。やりたきゃ、やればいいということ。勝手に突っ走る人間を、フォローこそしないものの、勝手にさせてくれる。これは、けっこういい社会ではないか。少なくとも一神教的に、異質な存在を社会的に抹消することに最大のエネルギーをかける社会よりは余程マシである。必要なのは、失うものを恐れない勇気だけだ。ヒトに背中を押してもらおうと思うな。足を引っ張るヒトがいないんだから、あとは自分がやるだけだ。日本とは、実はそういう社会なんだ。けっこう悪くはないじゃないか。


(04/02/06)

(c)2004 FUJII Yoshihiko


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