戦略的発想力






「戦略を立てる」のは、けっこう大変な作業である。それは戦略には「正解」がないからだ。どんな戦略でもありうるし、戦略と言うものの持っている性質上、結果的に成功するかどうかはさておき、それを実施に移すことも可能である。つまり、戦略とはあくまでも主観なのだ。意志の力が、戦略を戦略たらしめている。戦略を立てた人間が、それだけ大きいスケールの夢やヴィジョンを構築できるか。それを実行・実現する力があるか。だからこそ、戦略を立てるのは大変だし、それを実行することも大変なのだ。

一方、戦術には必ず正解がある。方程式を解くように、一意に決まらない場合もあるが、客観的な最適解は必ず存在する。従って、戦術を立てて実行することは、自分自身の内面の問題ではなく、その「正解」を、いかに早くスマートに得るかという問題である。ということは、「秀才」であれば、理詰めでオプティマイスできる領域である。理論やシミュレーションにより、フォローアップできる部分も多い。同様に、勉強や努力でフォローできる部分も多い。

いいかえれば、戦略とは、ドリルを解くことではなく、記述式の論文を書くことである。それもテーマが与えられるのではなく、それ自体も白紙から自分で考えて。もはや、テストというよりは、ヒトを感動させられる作品を創り出すこと。まさに天才の世界。それが、リーダーシップである。なにより思いつきが大事なのだ。ロジカルに、演繹的にいくら考えてもダメ。秀才として評価される能力をいくら振りまわしても、戦略は構築できないコトを知るべきだ。

どうも近代日本社会は、秀才は多いし、偏差値として評価されやすいのだが、天才は何かと住みにくく、評価されがたいところがある。そもそも明治以降、「欧米に追いつき追い越せ」をモットーに全ての仕組みを組み立ててしまった社会なので、それで済んできたのだろう。しかし、20世紀に入ると世界的に大衆社会化が進み、組織や国家も超然としてはいられず、グローバルな戦略性があってはじめて世界の中での居場所が作れるようになった。それと共に、日本という国家には、戦略の無さというホコロビが出はじめる。戦前の軍部の暴走も、戦術を目的化することしかできない、「大衆出身の秀才達」の限界を示している。

このように日本には、戦略的発想ができる人間がそもそも少ない。それに加えて、戦略を評価し、それを「布教」できる人間はもっと少ない。自分の戦略を他人に説得するときには、あらゆる可能性を考え、その上で自分の提唱する戦略の良さを示せなくてはいけない。実は、これもまた難儀な作業だ。それもあって、日本の社会では多くの場合、戦略的発想ができたとしても、自分の戦略の中身を主張するに留まっている。その正当性や良さまで含めて主張することはあまりない。

オーナー社長が大胆な戦略をとり成功することはままある。それはあくまでも「オーナー」というポジションゆえ、一方的に主観的な戦略を主張しても、それなりに浸透力を持つからだ。その一方で「雇われ社長」が大胆な戦略を取ろうとしても、主観的な主張だけでは説得力を持たず、結局実施できないことも多い。もともと戦略とは主観なのだから、そうなるのも故ないことではない。しかし、自分の考えている戦略の魅力や正当性を示すためには、それでは不充分だ。違う戦略を主張する相手と、議論にさえならない。吠えあって、声の大きさを競うのが関の山である。

たとえば、「日本の核武装」をどう考えるか、という戦略論を想定してみよう。「日本が核武装すべきだ」という論者も、「核武装すべきでない」という論者も、それを論じる以上は、核武装したときのメリット・デメリット、増えるコストと得られるリターンをキチンと考えた上で、自分の主張の正当性を主張しなくては、そもそも説得力は得られない。あらゆるオプションを想定し、そのSWOT分析を元に主張しているのであれば、違う戦略を主張するもの同士でも、どこが違いを生みだしているクリティカルな論点なのか、すぐにわかるし、その分議論も噛み合うだろう。

「改憲」も「軍備」もそうだし、「アメリカ・中国・ロシア」のどこと組むかもそうだし、こと日本においては、戦略の主張においては、自分のよしとする戦略以外のオプションを考え、それを比較評価する視点がほとんどない。バカの一つ覚えの様に、自分の主張を繰り返すだけである。これではいつまでたっても、世界的にガキ扱いされても仕方あるまい。政・財・官なんでもいいのだが、偏差値の高い秀才を評価し重用する限り、この状況は変りようがない。まさに「学歴詐称」が問題にされるうちは、この国はダッチロールを繰り返すのだろう。


(04/02/27)

(c)2004 FUJII Yoshihiko


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