若さの意味





日本においては、高度成長期以来「若さは力だ」「若さは正しい」というイメージが定着している。特に「団塊の世代」には、このような「若さ」への信仰が顕著に見られる。実際、彼らは「若さ」だけを売り物にしてきたかに見える。それには、ワケがある。実は団塊の世代は、理屈の面では戦後教育の影響もあるものの、刷り込まれている意識や行動様式という面では、それ以前の世代と「同じ穴のムジナ」である。基本的には、同じ軸の上に乗っている。だから、それ以前の世代と差別化できるとすれば、それは「若い」という点だけだった。だからこそ「若さ」にコダわったのはよくわかる。

しかし「若さ」というものは、人間が生きていく上での売り物にはならない。もちろん、「若さ」はある時点で勝負をかける「武器」にはなる。しかし、人間の本質的価値ではないからだ。「若い」ということは、誰でも人生のある時期には持ちうる特徴である。その一方で、必然的に一時期しか持ち得ない相対的な特徴でもある。これでは、そもそも個性面での差別化は不可能である。個性面での差別化ができないものでは、売り物にはならないのは当り前だ。オマケに、「若さ」を強調する以上、若くなくなったときには過去の自分を総括するか、自己否定しない限り、構造的自己矛盾に陥る。

結局のところ、団塊の世代は大いなる勘違いをし、それに酔っていただけのことである。「若さ信仰」の本質は、そんなものだ、高度成長期は、安くて強靭な体力を持つ人材が、労働力として大量に必要だった。それを、大量に供給できたのが団塊の世代だった。ここに勘違いが生まれた。これを、団塊世代特有のある種の「悪平等精神」とともに、「若さこそが正しい」とこじつけ、それを数の力でおしきった。それゆえ、「若いことは正しいこと」と、真理が捻じ曲げられてしまったのだ。

元来、儒教的な価値観においては、若さ即価値ではない。若者には若者ならではの世界があるが、深い経験に裏打ちされた洞察力や悟り、人々をまとめあげ引きつける力などは、年齢を重ねると共に高まって行く。本来、肉体的若さと人間の価値は関係ないのだ。価値ある人間は若くても、歳老いても価値がある。価値のない人間は、若かろうが歳とろうが、本質的に価値がない。年齢と価値とは全く関係がない、独立した別の軸である。ただ、若いうちは体力があって無理が効く上に、安いコストでも働いてもらえる、というコモディティー的な価格競争上の強みがあるというだけだ。若ければ、価値がなくても、それなりの使い方があるということに過ぎない。

人間の価値を保つには、不断の努力が必要だ。才能だけでは、人間はやっていけない。天性の才能がなくては、いくら努力しても無駄以外の何物でもないことはいうまでもない。しかし、どんな才能を持って生まれても、それを磨く努力をしてはじめて開花する。価値のある人間であっても、その価値をキープする努力を常に行ってこそ、歳をとっても高い価値を持つ人間でいられる。だから、歳をとっても価値を持ちつづける人間は、本当に高い価値を持っていることになる。中国古典の仙人や賢者のイメージは、老人の姿をとっているものが多い。それは故ないことではないのだ。

一方、アメリカにおいては「Stay Young, Live Long」という価値観が定着している。しかし、これは決して若さを礼賛したものではない。物理的に歳をとっても、若い頃以上のバイタリティーとエネルギーをもって取り組む生き方を賛美したものである。つまりこの「若さ」は精神性の問題であり、肉体の問題ではない。ここでもまた、持って生まれたタレントに安住せず、常に努力を生き方に価値を見出している。しかし、日本では歪んで伝わってしまった。結果団塊の世代を中心に、「歳をとっても、若者ブッていることが長生きの秘訣」程度にしか、このコトバを捉えていないヒトが多い。

奇しくも、団塊の世代は金融危機以降に起った、産業界を中心とする日本の構造改革の中で、もっともリストラクチャリングの対象となった世代だ。これは、彼らの大多数が、が大企業の工場熟練労働者として従事しており、日本の産業構造が、ただ「いいものを安く作る」だけでは競争力とならなくなったからだ。しかし、このリストラは必然的にビルトインされていたものと見ることもできる。「若さ」しか売り物を持たなかった人間が、老いてしまえばリストラされるのは必須だからだ。

人間というもの、ある特定領域において比べるならば、価値のある人間と価値のない人間の差は歴然としている。そして価値のある人間は、常に価値のない人間より希少なのだ。だからこそ価値が生まれるとも言える。それを数にあかせて「人間の価値は平等なのだ」と強弁するのは、そもそも無理がある。それは、価値のない方にスタンダードを合わせ、価値のあるほうの足を引っ張ることに他ならない。これでは、いつまでたっても物事はいい方へ向かわない。「甘え・無責任」に生きるのは別に構わないが、だからといってヒトの足を引っ張る権利はない。そろそろ悪平等に拘泥するのは終わりにしないか。


(04/03/05)

(c)2004 FUJII Yoshihiko


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