悪平等の体現者たち






20世紀末の日本を駆け抜けて行った、超大衆社会という、悪平等主義の悪夢。その一億総中流の幻想を演出にあたっては、総中流大衆の友として、彼ら・彼女等をターゲットにした流通のマーチャンタイジングのあり方を無視するわけにはいかない。その頂点にあったのは、なんといっても「ダイエー」グループであろう。ダイエーの没落の原因は、土地を担保にした、右肩上がりの借入金経営という構造的問題に求められることが多い。しかし流通業である以上、日銭が入ってこなくなったのは、そのマーチャンタイジングの構造的問題に求めるべきではないだろうか。

今でこそ、本来の意味で使われるようになった「Every Day Low Price」だが、日本ではじめてこのコトバを輸入したのはダイエーである。そういう意味で、ダイエーはEvery Day Low Priceの元祖だが、単価は決して安くはなかった。独自の価値があるものを安くではなく、結局はプアマンズ・デパートメントでしかなかった。ギリギリの購買力で「一億総中流」を体現したかった、団塊ブルーカラーを主要顧客としていた。この層の持っていた購買力が、良きにつけ、悪しきにつけ、ダイエーの70年代の成長の原動力になると同時に、それがダイエーの金科玉条の黄金律となってしまった。

それなりに高級に見えそうな安物を、安く売る。それは、決して絶対的に安いワケではない。たとえば、百貨店のオーダーワイシャツに見えるような既成シャツを、4000円とか5000円とかで売るのは強いが、1980円でそれなりの商品個性を持った無印良品的なマーチャンタイジングは苦手である。同様に、一見、百貨店もののイージーオーダースーツみたいに見える既製服を、それより安い値段で売るようなシカケは得意中の得意だった。しかし、その後の「洋服の青山」とかが行うような抜本的な価格破壊は行い得なかった。

それは、百貨店が高コスト・高価格体質に安住していたのを前提に、それよりは若干コストを削り、それよりは安く提供する、という意味での「Low Price」でしかなかった。結局は、表面を取り繕ってはいるものの、「安かろう、悪かろう」なのだ。安い分、理由がある。そして、その理由分しか安くない。「理由以上に安くなる」のが、価格破壊である。そういう意味では、相応の価格でしかない。プライスタグについた数字の絶対値自体は小さくなっているが、中身を考えれば、価格相応でしかない。価格構造そのものは、なんら変えられなかったのだ。

これは、ターゲットの持っている構造的問題にも依存している。団塊の世代の多くは、商品の「形の違い」はわかっても、「質の違い」を評価できない。ロープライスであれば、ロープライスなりに違う個性、違う魅力を持つ商品を提供するのが、真の意味でのEvery Day Low Priceだ。これをやるには、マーチャンタイジングする側に、ある種のポリシーや審美眼がもとめられる。100円ショップが成功したのも、このスキ間をウマくついたからである。彼らは、質とプライスを比較した「コストパフォーマンス」を評価しない以上、見てくれの似ているものを安く提供するだけでことたりた。

ダイエーがやっていた「ELDP」は、「新しい価値の提供」ではなく、ターゲットとしていた団塊大衆の欠陥である「表面的な評価しかできず、真の意味での価値評価ができない」ことに依存したマーチャンタイジングでしかなかった。ちょうどこの世代は、ホンモノと似ても似付かないクォリティーの商品でも、一流ブランドの「マーク」がついているだけで、「偽ブランド商品」として、喜んで購入していた。まさにそれが価値を判断する基準を自分の中にもってない、言い方を変えれば審美眼を育てるチャンスも意欲もないまま育ってしまったことを示している。

80年代、中国残留孤児の一時帰国時には、碑文谷のダイエーに行ってショッピングを楽しむというのが、恒例の日程になっていた。これの意味するところは深い。マーチャンタイジング面での親和性もあるだろうが、ダイエーの寄って立つところが、ある種「悪平等の体現者」という古典的な「社会主義的」存在であるだけに、妙な親近感があったのではないだろうか。三越や西武百貨店ではそもそも入っただけで違和感があるだろうし、逆にイトーヨーカドーが提唱している価値には「華」を感じなかったかもしれない。

似たようなターゲッティングをしていたのが、百貨店では「そごう」である。こちらは、このクラスタがバブル期に持っていた購買パワーをアテにして規模の拡大を図った。それだけに、バブル崩壊と共にあっけなく「虚構のそごう帝国」も崩壊してしまったことは、記憶に新しい。バブル崩壊後の90年代には、もう一度ダイエーにチャンスがあったかもしれない。しかし、もはや彼らは「一億層中流の幻想」を維持できるだけのバイイング・パワーを持っていなかった。これが命取りであった。

同様の構造的問題を抱えているのが、ファミリーレストランだ。もともとファミレスには、日常的な食事を求めるヒトと、日常と一味違うものを求めるヒトが混在して来店していた。その中でもヴォリュームゾーンは、日常と一味違うものを求めるヒトだった。団塊世代の家族のライフステージと共にあったともいえるだろう。しかし団塊Jr.世代では、日常化してしまったことと、フトコロに余裕がないことの相乗効果で、足が遠のいているのだ。かつては日曜日の昼、行列で待たされることも多かったが、今はそういう店は少ない。昨今では、平日と変らない。平日の動員力のある店は残っているが、休日に頼っていた店はかなり厳しい状況になっている。

これからのマーチャンタイジングでは、歴然と起っている「階層化」にどう対応するかがカギになる。総中流ではなく、少しの上流と、下流の大衆しかいなくなる。オマケに、若者層は、はっきり自分の「分」をわきまえる方向にきている。「一億層中流」を前提にした、「上質のニセモノ」を普及させてゼニを稼ぐ戦法は望めない。高価、高付加価値な「上質」と、安価、低付加価値な「並」とを、戦略的にキチンと棲み分け、それぞれで利益を出せる体質を築くことが求められている。流通においては、これに成功したところは勝ち組となり、これに失敗したところは負け組となっている。次は、この波が製造業を襲う番だ。


(04/03/12)

(c)2004 FUJII Yoshihiko


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