秀才とコンピュータ





20世紀の日本ほど、「秀才」を評価し、「秀才」を育ててきた国はないのではないだろうか。学歴社会や偏差値主義が、その典型的な例証だろう。秀才が秀才たる由縁は、その知識の量にある。そして、知識の量は、努力して勉強することにより、どんどん増加する。まさに秀才とは努力の産物なのだ。したがって、かつては努力が評価され、それなりに報われる時代だったということができる。その時代に育ったヒトには、未だにその幻想から抜け出ていないヒトも多い。しかし、そのスキームは一変してしまった。それは、情報環境の革命的な変化に基づく。

「知識の量」とは、扱える情報の量というである。これはまさにコンピュータの得意とする世界だ。そしてそれこそ、スタンドアロンではなく、個々のコンピュータをネットワークし、相互にその情報を利用できるという、インターネットの強みでもある。ネットワークコンピュータの記録できる情報の量と、一人の人間が記憶できる情報の量とでは、そもそも比較にならない。そもそも、どんな知識の豊富なヒトでも、有限な人生の中で蓄積できる知識の量には限界がある。そしてそれは、どこまで行っても社会全体に蓄積された情報量からすれば、桁の違うサブセットしかない。

知識を問うテストや暗記物が、秀才の活躍の場だった。歩くデータベースとしての情報量だけが、秀才の武器だからだ。実は記憶は、量的な問題ならば、努力次第で何とかなる。なんせ、人間の脳の記憶容量は、ごく一部しか使われていないのだから、残りの部分を活用する可能性は、誰にでも残されている。丸暗記については、確かに潜在能力は皆持っているワケで、どこまでやるかはまさに「努力次第」ということになる。これを実践したのが、今では死語になってしまった、いわゆる「ガリ勉」だ。

とにかく、覚えられるものは、力ワザでかたっぱしから覚えてしまう。応用を利かすのではなく、とにかく覚えてしまうところが特徴だ。「解き方」だけを覚えているのではなく、問題集があれば、その答えを全て覚えてしまう。教科書や参考書のみならず、辞書を暗記してしまったという「剛の者」の伝説も、昔は良く聞かれた。偏差値に象徴されるような、テストの点数でヒトを評価するやり方も、そういう秀才が意味がある時代の産物だ。

しかし、そういう人間の活躍する余地があったのは、コンピュータもなく、膨大な情報から「検索」することができなかった時代のこと。いまなら、情報の全てをアタマに詰め込んでおかなくても、容易にその情報を利用することはできる。いや、実はそういう世界は、以前からあった。それは「持ち込み可」のテストである。「持ち込み可」のテストは、記憶を競うモノではなく、情報があることを前提に、それをどれだけ活用できるかを評価するものである。秀才の強みは、「持ち込み可」のテストでは活きない。今は、検索してからが勝負の時代。まさに、「持ち込み可」でしか評価されない時代なのだ。

情報はいくらでも湯水のごとくある。その中から、意味あるものを読み取り、それを活用するアイディアや企画を創れるかどうか。そっちが人間の役割として重要になっている。人間の対応力はスゴいのだ。すでに、変化は始まっている。検索エンジンを使えば、機械的に情報を集めることはできる。しかし、そこから「意味」や「価値」を引き出すのは、それをやる人間の能力に依存している。情報環境の変化からは、学歴主義の破綻、努力幻想の破綻こそを読み取るベキなのだ。

最近の10代、20代に顕著に見られる「クリエイター忌避」的な傾向も、この影響の一つと見ることができる。努力次第でナントカなる秀才の時代なら、自分も努力すれば成功者の側に立つことができる、という幻想が持てる。しかし、天才の時代になるとそうはいかない。成功者になれる可能性は、最初から狭められてしまう。「才能」を持っていなくては、いくら努力しても成功できないことが、誰の目からも見えてしまうからだ。実際、野球やサッカーといったスポーツでも、バンド組むといった音楽をやるのでも、甚だしきは、趣味やコレクションの世界でも、親の才能を受け継いだ二世の英才教育の世界になってしまった。

ゲーム指向、シミュレーション指向が強いのも、この影響と見ることができる。リアルなスポーツをやるヒトは、ごく限られた層だけになってしまったが、スポーツのシミュレーションをプレイするヒトは多い。音楽やホビーの領域でも、ゲーム化・シミュレーション化は盛んだ。結局、本気になることもなく、努力することもなく、境界の手前側にいたままで、そこそこ楽しめるならプレイするが、人生を賭けて努力するのはバカバカしい、ということなのだろう。実は、このリアルとシミュレーションの逆転が、90年代以降のアニメやゲームのポジション変化を起こしているのだが、これについては項を改めて論じたい。

かくして、多数者の側は「そんな無駄な努力はしない」ということになる。結果的に天才を「河原乞食」の側に押し込め、観客としての自分の立ち位置を正当化しているのが、昨今の状況である。なんせ、才能を持っていないヒトの方が明かに多いだけに、数で勝負すれば簡単に正当化できる。しかし、それは考えてみればいいコトではないか。みんながみんな、「ヒトは誰でも努力すれば何とかなる」と勘違いしているのではなく、「分相応」の位置付けを受け入れていることになるのだから。それを前提に社会のあり方を考える方が余程建設的だ。

楽器業界やスポーツ用具業界は辛いかもしれないが、消費市場全体の活性化という意味では、プレイヤーと観客がくっきり分かれている方が、推進力は強い。プロはプロとして魅力のあるコンテンツを創りだし、アマはアマとして、それを観客として消費する。こういう役割分担がハッキリしている方が、そのコンテンツに対する直接支出はもちろん、そのイベントが創り出す間接支出の大きさも、大きくなるからだ。意識の変化はすでに起こってしまっている。あとは、それを受け入れて、それを前提にした社会のスキームをどう作っていくかにかかっている。


(04/03/26)

(c)2004 FUJII Yoshihiko


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