インターネット時代の組織






Yahoo BBから、お詫びの金券が送られてきた。個人情報漏洩事件が起ったときには、マスコミは鬼の首を取ったような騒ぎようだったが、果たしてそれだけの事件だったのだろうか。確かに、流出した情報の件数は桁外れであったものの、漏洩した情報そのものは、実は大した機密情報ではない。漏洩した氏名、住所、電話番号は基本的にオープン情報である。さらにメールアドレスも、非公開のものではない。インターネットの特性を考えれば、これらは、金か手間かをかければ、基本的に集められる情報のレベルでしかない。

客観的に考えれば、情報漏洩の「質」という面では、巷間いわれているほどの重大な問題とは思われない。ましてや、ここで考えておかなくてはいけないのは、この「事件」が発生した場が、インターネットのサービスプロバイダである点だ。「絶対にもれてはいけない」という発想自体が、そもそもインターネットの基本的な考えかたとは相容れない。インターネットに「信頼」を求める行為自体が、その成り立ちを知っている者にとっては、そもそも矛盾である。

低信頼度のデバイスで、安く、イージーにネットワークを構築しようというのがインターネットの基本である。届かなければ、届くまで再送すればいい。届かなかったデータは、海のものとなろうと、山のものとなろうと、知ったことではない。かつてのネットワークでは、デバイスのスペックとして過剰な信頼度を求め、安全策として二重三重に冗長化してトラブルが起きても対応可能にしていた。確かに、アナログ時代のキャリアに求められたのは、こういった「信頼度の追求」であった。それは過剰なコストを前提とし、「必要以上に高い通信費」によって支えられていた。

しかしディジタル化と共に、「結果オーライ」でいいならば、ミクロ的部分にそういう「アナログ的精度」を求めなくても、システム全体として、あるレベルのマクロ的なパフォーマンスを求めることが可能になった。これが、インターネットのイノベーションである。同時に、許認可行政に代表されるような管理によってのみ、ネットワークの秩序は保たれるとされていたアナログ時代の「常識」も、誰が管理するともなく、ユーザー間での自主的な運営に任せても、キチンと機能するコトも実証された。

さて、もともとインターネットに代表されるような情報化社会が進展すると、そもそもプライバシーという概念が意味がなくなるし、それを敢えて守ろうとする人間は、なにかうしろめたいところがあるのではないか、と勘ぐられてもおかしくない、というのが、今までこの場で一貫して主張してきたテーマである。それを肯定するか、否定するかに関わらず、機密を守るためのコストなら、いくらかけてもいいという考えでは、社会が立ち行かない状況になっていることは、誰も否定できない。昨今の「デフレ」は、需要減ではなく、ディジタル化が必然的に内包するコストダウン機能の産物でもある。

したがって、常に「情報が漏れることによる損失と、それを防ぐコストのトレードオフ」を考えなくてはいけない。絶対に水も漏らさない、ということは、人間系がくっついている以上不可能である。マシン系は、確かにコストさえ無尽蔵にかければ、機密度をどこまでも高めることは、技術的には可能である。その反面、人間は情報を漏らすものである。これを完璧に押さえることはできない。であるならば、自然科学の実験の際の「有効数字」の考えかたと同様、マシン系の精度をいくら上げたとしても、人間系の精度が高められない以上意味はなく、全体の精度は人間系で規定されてしまうということだ。

「漏れないこと」を前提にセキュリティーを考えると、とてつもなくコストが跳ね上がる。もはや、アナログ時代のこの発想では成り立たない。漏れても問題ないレベルの情報なら、多少は漏れても構わない。あるいは、もし漏れたとしても、それを余り問題にならないレベルにとどめる。こういう、「ある程度漏れること」を前提に、損失コストを最小に押さえることが重要になる。漏れを防ぐが余り、漏れたときの損失コスト以上に、コストをかけて予防することなど、愚の骨頂である。この発想が、これからの社会における行動様式の基本となる。

これは、製造業でも同じだ。壊れない製品を作る発想は、コストを考えるともはや通用しない。過剰装備では競争力を持たない。「壊れない製品」とすべく信頼度を高めるのと、壊れたらすぐ新品と交換するのと、どっちがコスト的に有利かという問題である。後者が有利な分岐点を越したら、ある程度壊れても仕方ないのを前提に、もし壊れてもユーザーに手間や迷惑をとらせないよう、アフターサービスを充実させた方がいい。宅配便やコンビニなど「ラスト・ワン・マイル」を補完するインフラの充実を考慮するなら、分岐点は、どんどん「交換」の方に寄ってくるはずだ。

こういう考えかたが広まってくると、組織や社会の運営についても、パラダイムシフトが求められる。いわば、インターネット型の組織論だ。低信頼度の人間を、ルーズな繋がりの中で活用することで、ローコストな組織運営を図る。これが、これからの社会を活性化するカギだ。すでに1980年代から、パソコンソフトのソフトハウスを中心に、IT業界、ソフト業界では、多分にこういう傾向が見られていた。いろんな意味で破綻したり、歪みのある人間でも、全体の中でローコストにウマく使い、パフォーマンスを上げる。これは、それまでの20世紀産業社会的な組織論とは、根本から異なる。

その組織が、完璧な仕組みになっているのなら、それを完璧に動かすのは、ある意味たやすい。しかし、何の苦労もアイディアもいらない。完全フェイルセーフの自動運転の電車なら、「お猿の電車」でも「無人運転」でも問題ないのと同じだ。それなら、結局はヒトはいらない、ということである。これからは、「一生プー」というか、「安かろう悪かろう」の労働力が多くなる。そこで求められるのは、そういう低信頼度の人材をウマく使いこなして、それなりのパフォーマンスをローコストで上げるための手法である。

実は、日本はこれが弱い。アメリカは、これが強い。それは、トップの戦略性やリーダーシップの有無が、この能力差を生み出しているからだ。トップが立派でしっかりしているとともに、責任と権限を持つ人間もまた戦略性とリーダシップを持てるなら、下々のものはそれこそ「甘え・無責任」でもいい。そういう意味でも、21世紀型の社会を作るには、リーダーシップがカギになる。リーダーシップがキチンとしていれば、あとの人々は、「甘え・無責任」のプーでも一向に構わない。この奥義を知ることが、今世紀を我が物にするカギとなるのだ。


(04/04/02)

(c)2004 FUJII Yoshihiko


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