差の時代





80年代、「情報化社会」に関する議論が盛んなころから、社会の情報化が進むと、情報を生み出せる人と、情報を消費するだけの人の差が、最も大きく、最も重要な「人間の違い」となる、ということが議論されてきた。その違いは、価値を生み出せるヒトか、価値を消費するだけのヒトか、という言うこともできる。そして、実際情報インフラが整備され、産業社会から情報社会への進化が実感されると共に、その「人間の価値」の差も現実のものとして感じられるようになってきた。

20世紀を通して行われた生産技術の進歩は、作ることにおいては差を生み出さなくなるような究極の生産性を実現した。そこに現出したのは、「最適化ができて当り前、できなくては競争力を持たない」、という世界である。したがって、大事なのは作るプロセスそのものではなく、「何を作るか」という部分である。その違いを決めるのはアイディアである。まさにこの「アイディアの違い」とは、情報を生み出す力のもたらす違いである。アイディアがなければ、ただ物理的に作って価格競争に陥るだけ。アイディアがあってこそ付加価値が出せる。

この情報を生み出す力は、個々人の生来の能力だ。この能力の個体差が激しいからこそ、情報を生み出せる人は少ないし、その人が生み出した情報は価値がある。いままでは、すでにある情報を消費するだけでも、それなりの準備と努力が必要だった。だからこそ、多くの人は情報に対してなにもしないし、それで済んだ。そういうスキームだったからこそ、情報に接しないヒト、情報を消費するだけの人、情報を生み出す人、という三区分が成り立った。

圧倒的に多い情報に接しない人々の前では、「情報を消費するだけの人」も、別のポジションに立っていることを主張できた。しかし、それは相対的なものに過ぎない。情報を消費するのに何ら準備も努力も要らない「情報化社会」になれば、この垣根は消えてしまう。以前にも指摘したように、ディジタル・ディバイドとは、情報環境による機会差のことではない。社会の情報化が進むことにより、情報を消費するだけの人と、情報を生み出す人とが、誰からもはっきりと見えるようになるコトのほうが、社会的影響は大きい。

ストレートに能力が見えてしまうということは、能力差が深刻化することに他ならない。オマケにその能力差は、後天的な努力だけではどうしようもないという、生まれつきの才能の差だ。差はどうやっても埋められない。これこそ、社会の情報化が生む、最も重要な「パラダイムシフト」の本質だ。情報化社会は、努力だけではどうしようもない社会だ。だからこそ、この期に及んで、期待を与えることは間違っている。努力幻想は消し去らなくてはならない。あきらめるのははやい方がいいからだ。

情報化時代では、能力に応じて、ヒトを選別することこそ大切なのだ。知の時代だからこそ、あらゆるプロセスは、選別のプロセスとなっていなくてはいけない。ムダな努力ほど、ムダなコストはない。最適化が求められている時代に、ムダな努力をするほど無意味なことはない。無意味なだけでなく、貴重なリソースを浪費してしまうという意味では、犯罪的でさえある。組織やコミュニティーの損失というだけではなく、エコロジー的な意味で、地球や人類にとっての損失でもある。

選別のプロセスは、誰が評価する側になるかという問題である。人間は、自分以上のポテンシャルを持っている人は、「スゴい」と思うことはできても、評価することはできない。評価できるのは自分より「小なりイコール」の存在だけである。見上げることはできても、一旦見上げてしまえば、測定できないのだ。だから、評価する権限を「優れた人」に与えることが必要になる。今の日本は、ここに構造的問題がある。「甘え・無責任」の凡才にも、年功序列で、人を評価する権限が与えられてしまっているからだ。

実は、誰が優れた「徳」のあるヒトとかいうのは、声にこそ出さないものの、みんなわかっている。前に述べたように、自分より優れた人は、ランキングし評価することは難しくても、「スゴい」ことはわかる。自分より上のヒトを識別できるということは、誰からも「スゴい」と思われるヒトこそ、優れた「徳」のあるヒトということである。したがって、「誰もが、自分より優れた人には、素直に敬意を表する」ような社会になれば、おのずと「徳」のあるヒトは、社会的に認知されるようになる。

ということは、この問題は「素直に敬意を表する」ようにさえすれば解決する。誰からも敬意を表されるヒトこそ、徳のあるヒトだからだ。だから、負けているコトがわかっていても、悪平等にしがみつき、その差を認めようとしない「多数の凡才」の意識こそが問題なのだ。ここさえ解決すれば、世の中は変る。悪平等にしがみついていては、貰えるものも貰えなくなる。それなら、差を認め、「優れた人間」にぶる下がった方が、余程リスクは少ない。この事実に人々が気付くことこそが必要なのだ。


(04/04/09)

(c)2004 FUJII Yoshihiko


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