調査データの読み方






本業の方では、市場調査等の定量調査に関わることも多いが、この調査という作業、こと日本においてはどうにも中途半端でキレが悪いコトが多い。そもそも調査屋さんは、統計学や数学的な解析技術には長けていても、社会常識がないのが普通である。その一方で、社会常識があるヒトは、統計的知識がないのが普通である。しかし、元来調査データを読むためには、その両方が必要となる。しかし、その両方を持つ人はほとんどいない。かくして、「何でそうなのか」は常に闇の中になってしまう。これが、日本の定量調査をめぐる状況なのだ。

調査結果で何かを語りたいと思うのなら、調査をする以前から、少なくとも仮説を持っていなくていけない。いかにデータがたくさんあっても、そこから何かが読めるわけではない。実験計画法の例を引くまでもなく、データは仮説を検証する道具でしかない。ある仮説に基づいて、それを立証するための調査や実験のプランを立てる。そして実査を行い、その結果がある範囲に収まっていれば、仮説は証明される。調査はそのために行われれる。したがって「ひとまず調べてみる」ことには意味はなく、調査設計が重要なのだ。

さて、朝日新聞一面に、ベネッセとの共同調査の結果として、「学力差、親の懐次第?」なる記事が出ていた。もともと全国紙の一般紙に、高度な内容の記事などハナから期待してはいないが、これなど、問題の構造や因果関係が良く解っていない典型例であろう。親の学歴も、親の所得も、子供の学力も、全て結果であり、説明変数ではない。これらに共通する説明変数があり、この三要素は、どれもその変数と強い相関を持つからこそ、結果的に三要素間の相関が強くなっているに過ぎない。

これは、「個人の差と、集団としての傾向値の差は違う」という、統計データを扱う上で最も初歩的な視点を持っていないから起る。特定の個人にオトシて考えるから、「カラスの子が必ず黒いワケではない」となって、後天的要素に違いを求めたくなる。そうではなく、統計においては、そもそも人間集団にいくつかのクラスタがあって、どちらのクラスタも個々の人間についてみれば色々な人がいるが、クラスタ全体の傾向としては、有意な違いがあると考えなくてはいけない。そうかんがえると、ここには二つのクラスタがある。

それをここでは、高学歴者集団と低学歴者集団と規定しよう。個人で見れば、結果として高学歴な人の中でも、色々な知性のレベルがあるし、色々な育ち方がある。所得もいろいろである。一概に何とも言えない。これは低学歴な人でも全く同じである。しかし、しかし、高学歴者集団と低学歴者集団というように、ある程度統計的な意味を持つ集団で考えた場合には、両者の間に有意な差が生まれる。調査データを統計的に処理してワカるのは、この集団間の相違や類似だけなのだ。

高学歴者集団の方が、低学歴者集団より、知的レベルが高水準な人が含まれる確率は高い。高学歴者集団の方が、低学歴者集団より、暮し向きが高い人が含まれる確率は高い。少なくとも、日本においては、人材という面では悪平等主義の徹底もあり、世界的に見てもオープンなチャンスがあるとともに、フェアな競争が繰り広げられている。であるならば、知的レベルが高い人であれば、成功する可能性は高く、近代の日本であればそれが所得に反映するのも当然である。

そう考えると、先ほどの新聞の見方では、結果同士を比べてその中で因果関係を見つけようとしているがことが良く解る。高学歴層は所得水準が高いから、子供も高偏差値になるのではない。問題は、本人の高学歴、本人の高所得、子供の高偏差値が多いクラスタと、本人の低学歴、本人の低所得、子供の低偏差値が多いクラスタとの差を生み出している要因である。そういう視点から、この二つのクラスタを対比させ、その原因となっているものが何かをと考えなくてはいけない。

真相はこうである。それは高知性層と低知性層の対比という視点である。高知性層は、集団で統計的に見るのなら、自身も社会的に成功する確率が高いだけでなく、子供もまた高知性層に含まれる確率が高い。低知性層は、集団で統計的に見るのなら、自身も社会的に成功する確率が低いだけでなく、子供もまた低知性層に含まれる確率が高い。高知性層は、高学歴である確率が高く、低知性層は、低学歴である確率が高い。学歴は結果でしかない。

もちろん、これはすべて集団としての「統計的傾向値」の問題であり、個々人の問題としてはあらゆる可能性があることは言うまでもない。しかし、知性は環境的ミームも含めれば、ほぼ完全に遺伝的に継承される形質である。それゆえ、個々人で見ればいろいろなパターンがありうるものの、集団としてみれば、高知性層は自律的に高知性層を再生産し、低知性層は自律的に低知性層を再生産することになる。従って、人間集団が高知性層と、低知性層に二分されているところ自体に問題の原因を捉えることができる。。

しかし、この調査で注目すべきは、差をつける教育、すなわち「自立・自己責任」たる「機会の平等」と、差をつけない教育、すなわち「甘え・無責任」たる「結果の平等」とどちらを求めるかについて、「高学歴層と低学歴層間」、「高所得層と低所得層間」で優位な差がある点だ。ある意味で、こんなことは常識以前のコトでもあるのだが、それだけに敢えてその違いをデータとして検証できることは意味がある。

もちろん、朝日新聞がそこまで読み取っているわけではないのだが、図らずして真相が見えてきてしまった。悪平等が進んだからこそ、虚構の平等意識では隠せないものが見えてきた。その結果、今の日本には、全く素性の異なる二つのクラスタがあるのだ。まさに日本には、まだ脈々と「密教徒vs.顕教徒」の構図が生き残っていた。大衆がいかに「甘え・無責任」に基づく悪平等社会を求めようと、キッチリと「自立・自己責任」に基づく競争社会を求める人たちがいる。これがある限り、日本の未来も捨てたものではない。


(04/04/09)

(c)2004 FUJII Yoshihiko


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