選別のプロセス





教育には、その誕生以来、常に二つの面がつきまとっている。一つは育成のプロセスであり、もう一つは選別のプロセスである。それはいつも言っているように、人間の能力が発揮されるには、元々ある「才能」と、それを磨く「努力」の両者が必要である。だからこそ、教育はこの両面を併せ持っている。産業革命以来の産業社会においては、世の中の「規格品」化が求められ、人間もまた「規格品」としての素養が重視された。その分、近代の教育システムは、誰もが最低限持たなくてはいけない基礎・基本の育成が重視され、それ以前に比べると選別のプロセスとしての意味は軽視されていた。

しかし、21世紀のポスト産業社会を迎え、人間の役割は大きく変った。マニュアル化できるものは、機械化が可能。これは人間の役割ではない。なにより人間は、付加価値を生み出すものでなくてはいけない。それとともに、教育の役割も大きく変る。それは、誰もが努力や鍛錬をすれば、そこそこ何とかなるものは、絶対に付加価値とはならないからだ。ポスト産業社会においては、教育も、天性の才能を見つけ出し、それを磨き上げるプロセスという、付加価値を生み出すためのものでなくてはいけなくなった。

こと日本においては、これは大きな転換となる。そもそも高度成長期には、日本はマンコストが安いだけでなく、1ドル360円という政略的な円安相場があり、これにより国際市場で比較した場合、人件費が圧倒的に安い状況を生み出していた。この結果、諸外国で機械化して生産するよりも、日本で人間系で生産したほうが、ずっと安いという状況を生み出した。このため、機械よりコスト安い「機械人間」が、大量にフィーチャーされることとなった。それは工場のラインだけでなく、オフィスや店頭においても同じコトであった。

流石に、ドルショック、オイルショック以降の構造変革において、生産ラインにおいては自動化、機械化が進み、「機械人間」の姿は過去のものとなったが、オフィスや店頭においてはバブル期に至るもまだ「機械人間」が残っていた。それは会社の従業員といえば、「機械人間」をベースにモノを考えるのが、いわば常識となっていたし、現実的にも大量の「機械人間」を「終身雇用・年功制」の下、企業は大量に抱えていた。しかし、もはや「機械人間」にはエンプロイヤビリティーはない。今だったら、それなら生産系だけでなく、情報系も充分機械化が可能だし、その方が格段に効率性が良い。

さて、こういう視点から「流通における人間系の役割」を考えると、新しい視点が生まれる。すなわち「接客」の持つ付加価値性である。それは突き詰めれば、自動販売機やインターネット通販で販売可能なものと不可能なものを集別するポイントとなる。ネットバブル以降、いろいろな形でインターネット販売の可能性や限界が語られたが、それはどちらかというと技術論に終始していた感がある。したがって、肯定的、否定的、どちらにしろ極めてブレが大きかった。しかしこの問題は、接客における人間系の付加価値、という視点から考えてこそ、その違いが解るのだ。

付加価値がつくような接客が可能である、あるいは付加価値がつくような接客が必要な業態や商品であれば、リアルな店舗がなくなることはない。そういう商品を、あえてオンラインで販売しようとしても、競争力を持たない。その一方で、そもそも「事務処理」以上の作業を人間系がやっていないのなら、自動化で充分。付加価値が解らない人間にとっては、何でも「インターネットで売る」になってしまう。しかし、オンライン・ショッピングも何年かの歴史を重ねる中で、それが強みを発揮する領域と、何ら強みを持たない領域があることがハッキリしてきた。

こうなれば、後はコストの問題だ。ファースト・フード系やコンビニで人間系が成り立っているのは、完全に機械化するために必要なコストを考えると、人間系で組み立てた方が余程ローコストでシステムを組み、オペレーションすることができるからだ。コンビニは、頻繁な商品の入れ換えや、高頻度のデリバリーへの対応等を考えれば、極めて多品種少量制になっている。こういう臨機応変の対応には、人間系の方が強いということである。自動販売コンビニを作っても、その商品補充や設定の変更に手間取るのなら、人が直接売った方が早い、というまでのことだ。

そういう例外を除けば、人間系で対応するということは、即、高付加価値型の対応をするということに他ならない。そして高付加価値型の対応ができる人間というのは、その人間自身が、付加価値を生み出せる人間であることを意味する。まさに、これからの社会を発展させるには、付加価値が生み出せる人間を選別し、その能力を伸ばして行くシステムが必要になる。これからの教育に課せられた役割は、まさにこの「付加価値が生み出せる人間を選別」することである。日本の将来は、悪平等を脱し、「才能に応じた機会」を与える社会になれるかどうかにかかっている。


(04/04/23)

(c)2004 FUJII Yoshihiko


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