「弱者」の甘え





何と言っても日本は「甘え・無責任」大国である。特に「官」が絡むと、責任の擦り合いのシステムが作動する。下々のものはお上に責任を押しつける、その一方で官僚はより上のポジションに責任を押し付ける、ということを繰り返す。そして最後は、責任をとりようがない「天皇」に責任をおしつけてウヤムヤにする。たとえば、「天皇の戦争責任」のように。これが、日本において天皇制が必要とされる最大の理由である。「甘え・無責任」の大衆が跋扈する日本では、超越した免罪符が求められるのだ。

では、日本で自己責任が成り立たないのかというと、決してそんなことはない。民においては基本的には自己責任が原則である。特に最近では、ゼロ金利が定着して以来、証券取引におけるリスクや、外貨預金における為替差損など、金融取引においては、自己責任でリスクをとらない限り、果実が得られないような状況が定着した。だからこそ、日本でも「自己責任」というコトバがしばしば聞かれるようになった。少なくとも、自分で自分の尻を拭けないことには手を出してはいけない、ということは理解されてきたようだ。

しかし、日本では伝統的に「判官贔屓」という名の無責任システムが定着している。自分を「弱者」と規定することで、一方的に免責される存在であるとし、「強者」の側にこそ常に責任があると強弁する。しかし、これも昨今ではかなり変化してきた。PL法や株主代表訴訟のように、相手に責任を負わせる場合には、責任を追及する側が、それなりの責任を立証する必要がある。「責任」の前には、強者も弱者もない。そこにあるのは、責任がある者と、責任がない者という区別だけであり、被害者、加害者の関係ではない。

関係者の中で、誰が責任がある者であり、だれが責任がない者なのかが問題になる。これが自己責任の世界だ。責任がないことをキッチリと示しておけば、不必要な責任は問われない。責任範囲を曖昧なままにしておくと、結果として責任を問われることも起る。不利益をこうむった側だけではなく、環境を提供した側もまた、自己責任なのだ。責任がないにもかかわらず、倫理だけで、親だから、親類だからといって責任を問うのは余りに理不尽である。大事なのは、そこで起った事象に対する責任関係だけなのだ。

たとえば、高層ビルの建設現場に立ち入る場合や、製鉄会社の工場のプラント内部に立ち入る場合など、「事故が起きて死傷しても、会社側は一切責任を負わない」旨の契約を交わした上で、はじめて立ち入りを許されるのが普通である。市場原理が働く民間においては、自己責任が原則だからだ。怪我しないように、死なないように注意するのは本人であって、それ以外の何者でもない。当人にもしものコトがあっても、それはあくまでも本人の不注意が原因であって、本人以外の何人も責められるものではない。これこそが、自己責任である。

そもそも、戦場を取材するジャーナリストやカメラマンは、自分の命を賭けてネタをつかまえるからこそ意味があり、また尊敬も与えられる。高名なロバート・キャパをはじめ、戦場で取材中に命を失った人も数多い。彼らは、あくまでも自己責任で危険な戦場の最前線に飛び込み、取材を行う。命を失うリスクも「織り込み済み」なのだ。まさに「殉死」である。命を捨ててミッションに赴くという意味では、軍人と同じだ。軍人の命が失われることは、英霊となること。すなわち名誉である。ジャーナリストの殉死もまた、同じ意味で名誉にこそなれ、補償したり、第三者が責任を負ったりするものではない。

そういう意味では、政府や国家は一切干渉すべきではない。そして、ジャーナリストでもNGOボランティアでも、危険地域で「自己責任」で活動しようという人は、まず、「私の命はもう捨てたので、自分が殺されようと、どうされようと構ってくれるな」という一札をいれるべきである。こいつを誘拐しようと殺そうと、国家は一切お構いなし。これを先に宣言するのである。こうすれば、そもそも誘拐してなにか譲歩を引き出そうとしても、交渉相手がないのだから、得られるものはない。そうなれば、誘拐したり人質にしたりすること自体が無意味になる。

死んでから、「お国のために命を捧げた英雄」として称え奉ることは意味があると思うが、生きている間は「こいつと国とは、一切関係ないし、権利義務関係もない」とすべきだ。場合によっては、パスポートを取り上げて、「行っても良いが、無国籍者、密入国者として行って来い」というのも良いかもしれない。そもそも日本人は、誰かがお尻を拭いてくれるもの、と思いこんでるフシがある。これが「甘え・無責任」なのだ。人間は、自己責任なら何をしてもいい。しかし、自己責任とは、第三者に一切手を煩わせず、面倒もかけないということなのだ。

人間には、自ら死ぬ権利がある。だから自殺できるのだし、命懸けの危険行為をしても構わない。だか、それが許されるのは、「他人に迷惑をかけない」という条件が満たされる場合だけである。中央線で電車に飛び込んで、列車を止めてしまい、何十万人という人間に迷惑をかけまくるバカが良くいる。死ぬのは勝手だが、他人に迷惑をかけるな。死ぬときぐらいは、人に甘えず、迷惑もかけずに死ね。それができないなら、やるな。最後の最後に、結局甘えてしまうのでは、自己責任は成り立たない。自己責任とは、有終の美をもって貫徹するものなのだから。


(04/04/30)

(c)2004 FUJII Yoshihiko


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