「自己責任」とは




こういうことを懇切丁寧に説明しなくちゃいけないというのも、「落語のオチ」の解説みたいなもので、面白くも何ともなくなってしまう上に、洒落っけもなくなってしまうので、エレガントではないのだが、まだまだキチンと解っていない人も多いようなので、敢えて解説することにした。テーマは、「自己責任」の問題である。なんで、いま「自己責任」が問題になったか。その反応のどこが問題か。これが曖昧なまま、キーワードだけが一人歩きしてしまっているからだ。

金融危機以降、「甘え・無責任」大国の日本でも、「自己責任」で行動する人が目立ち始めた。まだまだ大衆の大部分は「甘え・無責任」である以上、多数派にはなっていないものの、確実に「自己責任」指向の、いわゆる「新古典派」的なメンタリティー・行動様式を持った日本人は増えてきている。ここにきて顕著になった日本経済の好調さも、この「自立・自己責任」の人達が牽引し、成果を上げだしたことに基づいている。

一方、旧態依然とした「大衆」のメンタリティーから抜け出せない人達が中心となっている企業は、いわゆる「負け組」として、同じ業種の中でも業績格差を拡げて日本経済の足を引っ張るだけでなく、いろいろな不祥事を引き起こしてさえいる。このように、今の日本には、「自立・自己責任」で、21世紀をキャッチアップした先進的クラスターと、「甘え・無責任」で、産業社会的なスキームから抜け出せない大衆的クラスターと、二つの人種が並存している。

企業が、「勝ち組」「負け組」に二分されていることからも解るように、自由意志に基づいて構成される組織においては、多くの場合「類は友を呼ぶ」で、「自立・自己責任」な人が集まり「自立・自己責任」で行動する組織と、「甘え・無責任」な人が集まり「甘え・無責任」で行動する組織とに二分される傾向がある。従って日常的には、異種の類型の人たちとコラボレーションをとる必要はないし、接する局面も限られている。もちろん、公立学校や旧軍隊といった強制された組織についてはこの限りではないが、今の日本では、こういう組織はほとんどない。

したがって、創発的ではあるものの、良いカタチで「棲み分け」ができているのが現状である。かつてのような一つの軸で価値観を判断する「イデオロギー」の時代ではなく、「そもそも人間は多軸である」と考える人間のほうが多数派となっていることも、この「棲み分け」を推し進める上でプラスになっている。とにかく、足の引っ張り合いは、現実的には最小限にとどめられていることが、結果的にプラスになり、「自立・自己責任」な人たちにとっては、それなりに評価される業績を残せているワケだ。

しかし、今回の人質事件は、実にこの二つのクラスタのスキ間に起ってしまった。最初に人質となった3人は、言っちゃ悪いが、あきらかに意識と行動が乖離している。あの人々の意識は、「甘え・無責任」の大衆レベルの意識そのものである。意識にも、行動にも、責任のカケラすら感じられない。その一方で、やろうとした行動は、グローバルな価値基準からすれば、明らかに「自立・自己責任」でやることが前提となっている行動である。そういう意味では、いわば「無免許運転」であり、最初から無謀な甘えがビルトインされているのだ。

「自立・自己責任」で行動する人からすれば、あんな「甘え・無責任」な大衆そのものでしかない人間が、ああいう行動をとること自体が間違っている。ということになる。だからこそ「自己責任」を主張するし、「行くなら行ってもいいが、それなら行く前に命は捨てていけ」ということになる。本来の「自己責任」論はこっちの方から出てきたものだし、、ぼく自身の主張もこの線に沿っている。行動の結果に責任をとれない人間は、そもそも行動しちゃいかん。こんなことは、元来3歳児に教えるべきことだ。

他方、世の中で多く流布しているのは、「甘え・無責任」な大衆の側からの「自己責任」論である。これは基本的に、既得権の擁護をその特徴としている。つまり、「跳ね上がった行動をしてくれたせいで、みんながみんな自己責任でしか生きられない世の中になってしまったらどうする」という論点である。だからこそ、この論点に立つと、「3人バッシング」になってしまう。「自立・自己責任」な人たちが、基本的に他人の行動については無視しているのと、好対照である。だからこそ、「自立・自己責任」ではあるのだが。

ということは、考えかたを変えると、これはチャンスかもしれない。すなわち、「自立・自己責任」な側からすれば、「甘え・無責任」な大衆が「跳ね上がった」行動をするのは勝手だし、どうせ痛い目に合うのは当人だから、と無視してきた。しかし、これだけ反応するということは、「脅せば縮こまる」ということでもある。それなら、脅して封じ込めてしまうのも手かもしれない。責任が来るぞ、責任は重いぞ、というだけで、クビを竦めてくれるのなら、こんなオイシイなことはない。もしかすると、これは歴史的転換点かも。


(04/05/07)

(c)2004 FUJII Yoshihiko


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