年金問題の本質






政界でのドタバタ劇のおかげで、年金に関する議論を聞かない日はなくなった。おかげで年金事務所には問い合わせが絶えず、時ならぬ大繁盛だそうだ。そういう意味では、年金問題に関するパブリシティー、マインドアップとしては、皮肉にも極めて効果が高かったと言うことができるだろう。しかし、話題が盛り上がれば盛り上がるほど、議論そのものは本筋から遠ざかってゆく。官房長官辞任以降は、ほとんど魔女狩りの様相を示している。政界では、ヤメるかヤメないか、禊が済んだか済まないかの議論になると、本質論ができなくなるのは常であるが、まさにこの問題もそうなっている。

年金問題の本質的な要素は、払ったか払わないか、加入したかしないかではない。「そもそも年金制度自体が必要なのかどうか」ということである。ここを議論しないまま、掛金の払い込みの有無だけを論じても意味はない。多くの人が掛金を払わないという事実は歴然としてある。政治家だけが、払わないことを問題視されるコトのほうがおかしい。払わない、払いたくないという点においては、政治家も一般民間人も同じことだ。それならば、なぜそういうマインドになるかを考えなくては意味がない。年金なんて期待していないし、なくてもいいと思っている人が多いからこそ、マインドが低くなるのではないか。

そういう意味では、議論すべきは、年金制度自体がこれからも必要とされるのか、それとも公的年金制度自体を廃止してしまったほうが良いのか、という点である。今の議論はあくまでも、年金制度は必要で、今後とも続くべきだという論点をベースとしているが、これはアプリオリに正しいわけではない。官僚がこれを前提にモノを考えたいという「願望」を持つのは勝手だが、それをおしつけるのはおかしい。キチンと議論すべきである。公的な年金制度自体をヤメてしまうのならば、払った払わないなどという議論は、そもそも意味がなくなるからだ。

日本における年金の歴史は、そう長いものではない。明治〜大正にかけては、日本にはそもそも年金制度はなかった。年金的な制度の嚆矢としては、1923年に制定された、公務員を対象とする恩給制度が上げられる。最初は、軍人と高級官史を中心とし、どちらかというと今でいう退職金的な功労金の制度であった。これが一般の公務員や、鉄道・専売といった現業部門に広がって行くと共に、共済組合による基金の運用が始まった。昭和といっても戦前においては、年金的な制度があったのは、あくまでもこういう「親方日の丸」な部門に限られている。一般の民間企業では、公的な年金制度はなかった。

それが、民間にも広がり始めたのは、その他多くの問題制度と同様、戦時体制の確立と軌を一にする。最初の公的年金制度は、1941年に制定された労働者年金保険である。この制度は、軍需工場などで働く男子労働者を被保険者とし、養老年金などを支給する年金保険として始まった。この制度が1944年10月に厚生年金保険と名称を改めて、女子にも適用を拡大した。これが現在の年金制度の始まりである。戦後の復興と共に、民間企業では厚生年金、公務員には共済年金、という年金制度が定着した。さらに、自営業者や農林漁業従事者を対象とした国民年金法が1961年に施行され、「国民皆年金」が実現することになった。

この歴史を見てもわかるように、年金制度は「なくてはいけない」モノではない。そもそも生涯の収入を現在価値に割り引いて考えれば、その一部を「年金」というカタチでキープし後から貰っても、その掛金分も含めて先に貰ってしまっても、その総額は変らないはずである。これが年金でもらった方が多くなってしまうのなら、それは「ネズミ講」である。そんなものは制度的に成り立たないし、続ければ破綻するに決っている。もっとも、現実の年金制度が、インフレ・右肩上がりの高度成長期に設計されたものである以上、こういう「破綻傾向」がビルトインされているというのも、疑いもない事実なのだが。

ということは、どこかに預けておきそれを後で貰うのでも、貰ったものの中から、一定の割合を自分のリスクと責任で貯めておき、それを後で使うのでも、どっちが得でどっちが損と、ということはあり得ない。そういう視点から、本来のあるべき年金制度について考えてみると、そのメリットは基金のスケールメリットに集約される。資金運用は、小さい単位より大きい単位の方がメリットが大きい。それは大きい単位なら、リスクヘッジを考えたポートフォリオが組めることと、資金運用をする際の手間やコストが効率化できるからだ。基本的に、メリットはこの2点だけである。

それなら、なにも公的な制度として年金を運用する必要はない。保険と同じで、民間企業が主催する「年金」という金融商品があればことたりてしまう。自分で運用したい人は、自分で運用する。誰かにお願いしたい人は、年金会社に預けて運用してもらう。これで充分である。預ける人も、自分の意志で預けるのだから、払った払わないの問題など起りようがない。年金自体も、他の金融商品同様の競争原理が働くので、より健全で効率的なもののみが残り、他は淘汰されて行くだろう。どこに公的制度である必要性があるというのか。

基本的には、自分の生活費をどうするかというのは自己責任である。「宵越しの金は持たない」とばかりに、入るそばから、飲む・打つ・買うに使い果たしてしまうのも自由。コツコツ貯めて質素に暮すのも自由。全ては自分で判断し、自分の責任においてやればいいだけの話である。それが本来の姿である。年金制度などというものに頼ること自体が、「甘え・無責任」なのだ。年金問題の最適な解決法は、すぐにでも一切の年金制度を廃止し、一時金で返してしまうことである。日本社会にはびこる「甘え・無責任」を一掃し、「自立・自己責任」の気風を築く上でも、それはいい「喝」になるであろう。

(04/05/14)

(c)2004 FUJII Yoshihiko


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