禊の構図







年金問題がニュースをにぎわせるようになって以来、またぞろ「禊」という名の「人身御供」を求める声が跋扈している。この問題は余りに深い。そのルーツは江戸時代にまでさかのぼることになる。江戸時代においては、支配階級を構成する武士と、一般庶民たる農民、町人との間に、責任や倫理観において、大きな違いがあった。そして、社会体制そのものが、その構造を是認し、支えていた。それは、責任を取る人々としての、儒教的パーソナリティーを備えた武士が存在する一方で、農民、町人は、「鬼のいぬ間の洗濯」、「旅の恥はかき捨て」に代表される「甘え・無責任」なメンタリティーを満喫していたコトに象徴される。彼らは「責任」は武士層に押し付けることで、気ままな暮しができたのだ。

このため江戸時代においては、武士と、農民、町人は、そもそも育つ環境や、教育される中身が異なっていた。農民、町人は、あくまでも読み書き算盤に代表される実学が中心だった。武士層も、もちろん実学のマスターは必須だったが、それだけではなく、しつけや古典の教養など、道徳的なカリキュラムも必須だった。産業革命以降の近代大衆社会が成立する以前の社会においては、洋の東西を問わず共通しているが、社会の中に有責任階級と、無責任階級があった。有責任階級は、しつけから教育から、生活の全てを通してノブリス・オブリジェのマインドを刷り込まれて育つ。その一方で、無責任階級は、そもそもしつけも道徳も縁のない育ち方をする。

その構造は、当然、明治に入ってから変化した。階級差のない、画一化された近代教育により人間形成が成されるようになった。道徳的なしつけは、多少は教育の中に取り入れられたものの、基本的には個人的な対応となってしまった。その結果、徳育については、家により、育ちにより異なるモノとなった。知識教育こそ、誰もがそれを会得できる機会が広がったものの、責任感に代表されるような、江戸時代の武士層の倫理面での必修科目は、一般に広がることなく、それを会得できるのは、士族など少数であった。その一方で、「学校教育=教育」という認識がひろがり、人物の社会的評価自体が、その後の偏差値に通じる「学校の成績」が基準となりだした。

1880年代になると、初等教育はさておき、高等教育は近代教育を受けた層が社会に出てくるようになる。この層は、まだ初等教育を江戸時代のスキームを受け継ぐ中で受けたため、少なくとも士族においては、儒教的な倫理観、責任感を会得していた。久野収氏が、明治の憲政成立期の政治構造を表して残した、「密教vs.顕教」という名言については、ここでもすでに何度も触れたが、まさにこの構造が成り立ったのも、儒教的責任感を持つ士族と、すでに「甘え・無責任」を確立した庶民がおり、その中で儒教的責任感を持ち得る人々(=密教徒)が、政治機構をリードして行くコトを前提としていたからである。

しかし、1890年代になると、この構造は崩れる。初等教育から、近代教育一本で育った層が、社会に出てくるようになる。当然、エリートとして社会を引っ張って行く層も、こういう人たちが中心になる。それだけでなく、この層の登場と共に、人徳や倫理観の高さで人間を評価する江戸時代からの伝統的な人物評価ではなく、「学校の勉強ができる」ことを持って人間を評価する、近代大衆教育社会に特有な「偏差値」的な人物評価が大手を振って罷り通るようになる。最近、日露戦争100年を節目に、日露戦争までと、日露戦争からで違う日本になった、という論調を良く聞くが、そのポイントはここにある。江戸時代的な「責任感を持つ武士」が消えるスタートポイントが、この時代なのだ。

あとは、20世紀のグローバルな波と共に、日本においても「大衆社会化」が怒涛のように進んで行く。大正デモクラシー、普選実施、民政党・政友会の二大政党制。これらのメルクマールは、戦後の「民主主義的歴史観」においては、遅々としながらも、民主化の要素が進んでいった明かしとして、ポジティブに扱われることが多かった。しかし、その実は、「甘え・無責任」が跋扈する大衆化の進展に過ぎない。責任を取る気もないし、取ることもできない「大衆」が、「偏差値」さえ高ければ、地位と権限だけは得てしまう。そのどこがポジティブに評価されようか。そして、1930年代を通して、「大衆社会化」への最終的な節目がやってくる。

儒教的な責任感、倫理観のメンタリティーを持ったものは、社会の一線から姿を消して行く。それと共に、基本的に「甘え・無責任」な大衆の中で「偏差値」が高い「秀才」が、それなりの地位と権限を与えられる、無責任大衆社会が実現する。「最後の元老」と称された西園寺公望氏がなくなったのが1940年。それは日本社会にとって、余りに象徴的な出来事である。まさに、太平洋戦争は、軍部自体が、責任感も倫理観もない「甘え・無責任」な秀才の集団になったがゆえに引き起こされた「暴走」である。そして、今問題の年金制度のみならず、現在の官僚システムや教育システム等、公的システムのほとんどが、この戦時体制下に成立したモノなのである。

そういう意味では、「甘え・無責任」な「大衆社会」の成立プロセスが、20世紀前半の日本社会の特徴であった。その一方で、20世紀後半の日本社会は、高度経済成長という絶好の追い風をバックに、「甘え・無責任」な「大衆社会」の拡大再生産のプロセスとして捉えることができる。1960年代までは、まだ戦時体制以前の日本、まがりなりにも「責任」のカケラが残っていた日本を知っている人たちが社会の一線に残っていた。それだけに、たとえばトップに立ったり、社会的リーダーとなったりする人は、それなりに「責任」を取る姿勢があった。政界、官界、財界、学界、どこでもその傾向は見られた。

たとえば、政治の世界でも、票と利権しか考えない「政治屋」が多いのは当然としても、キチンと国の将来とそのために自分の責任を考える「政治家」も少数ながらいた。だからこそ成立したのが、前にも論じたことがあるが、自民党という政治システムであり、それを前提に成立したのが、55年体制であった。しかし、それも1970年代以降は、ついに崩れ去り、「甘え・無責任」一色の「超大衆社会」が実現することになる。しかし、ここに矛盾が発生する。大衆が「甘え・無責任」を享受するためには、責任を振る相手が必要になる。しかし、この時代になると、責任を振るべき地位と権限にある者も、同じ穴のムジナである「甘え・無責任」な大衆である。

彼らは、地位と権限から得られる「おいしさ」はたっぷり頂くものの、自らその地位や権限に見合った責任を取ることはしない。この事実は、次々と不祥事を繰り返す体質を持った企業を見れば、まさに実例には事欠かないだろう。そうなると、大衆の側としては、責任を押し付けるための「人身御供」が必要になる。これが「禊」の正体である。結局は、「同じ穴のムジナ」である、「甘え・無責任」な大衆同士の中で、誰に責任を押しつけて生贄とするか、というロシアン・ルーレットである。しかし、時代は「甘え・無責任」なままで、誰かを人柱にすれば済むような状況ではない。それは、昨今の日本社会の迷走自体が、なによりも如実に表している。



(04/05/28)

(c)2004 FUJII Yoshihiko


「Essay & Diary」にもどる


「Contents Index」にもどる


はじめにもどる