情報化社会での「信頼感」







ある世代以上においては、「情報」と聞くと、反射的に「囲い込んでおくもの」という反応が返ってくる。そもそも、こういう「秘密にする」モチベーションは、20世紀の「近代社会的」な価値観やスキームが前提となっている。そこでは、情報技術が未熟なため、「知は力なり」とばかりに、「知識を持っている」ことが重要視された。しかし、21世紀を目前にした1980年代から、情報化の進展というパラダイムシフトが始まる。だからこそ、世代間での「情報観」の落差が生まれてしまった。昭和20年代以前生まれと、30年代以降生まれの溝は埋め難いものがあるが、情報観もまた、その一つである。

情報化社会においては、情報はあって当り前、知識の蓄積はタダで使えて当り前だ。そんな「知識」は、いくらあっても、意味も価値も持たない。百科辞典とインターネットの検索エンジンを比べてみればすぐわかるだろう。近代社会においては、百科辞典はご利益のあるモノとされていた。しかし、そこには一面的な情報しか載っていない。その一方で、検索エンジンは玉石混交のあらゆる視点に立った情報を引っ張ってくる。情報そのものとしての知識ではなく、それをどうつかうかという知恵が付加価値の源泉として認識される。

さて、「情報」の位置付けがこう変化すると、それに伴って「情報に基づく信頼感」の築き方も大きく変ってくる。「情報は囲い込んでおくもの」という発想が身についた世代の人たちが、信頼感を築くために行う情報行動と、「情報はそもそもオープンなもの」という発想が身についた世代の人たちが行う行動とは、おのずから異なってくる。そして、社会の一線で活躍する人材が世代交代を遂げようとしている今だからこそ、この変化に対応したパラダイムシフトが求められている。

その顕著な例が、IR、パブリシティー、ブランドビルディング等に見られる、企業の信頼感の醸成だろう。企業に対する意識は、世代交代と共に大きく変化した。1960年代、70年代においては、トイレットペーパー買占めに代表されるように、「企業性悪説」が基本になっていた。今でも、共産党とかは、大企業悪玉説で、何でも大企業のせいにして、そのスネをかじろうとするが、こういう論調は高度成長期にはそれなりに広がっていた。ところが、80年代以降大きく変化する。全体の論調は、企業性善説に移行した。企業への信頼感が高いことを前提にして、ブランドイメージが生まれてくる。

これをもたらすカギとなったものこそ、情報の公開、すなわちディスクロージャーである。企業に関わる情報は、全て積極的に公開する。企業に関わるあらゆる問題について、問われれば必ず誠意と責任をもって答える「アカウンタビリティー」を持つ。これが、企業性善説への変化を生み出した。これだけではない。常に「見えている」こと、「見られている」ことが、企業のガバナンスにおいても、公正さを担保する。今や、秘密のある企業は信用されない。すべて公開する企業は、公正な社会的存在として信用される。逆に、不祥事を起こした企業の情報隠蔽体質には、目に余るものがあるではないか。

新聞社などの、マスコミ・ジャーナリズム企業は、直接ユーザーと接せず、マーケティング的発想をもたないため、こういう「企業としての信頼感の醸成」に関しては、あまり積極的ではない。その一方で、ブランド力のある企業は、そのブランドへの信頼度をバックに、自ら直接語り、情報発信をはじめる。その結果、株式マーケットは、今や経済紙・誌の情報より、企業自身がWebなどいろいろなチャネルを通じて自ら発信する情報のほうを信用するようになるところまできた。これなど、この20年かけて、情報化の進展と共に、信頼の獲得へのたゆまぬ努力を行ってきた結果といえるだろう。

さて、良く問題になる、クレーマーや、風説の流布への対応も、全く同じである。「信頼感」を築いた企業なら、誰が何と言われようと、なにも恐れることはない。企業自体が積極的に情報公開し、自分の真の姿を寄り多くの人に知ってもらうべく努力しているのなら、ヘンなウワサが立ってもすぐに消えてしまう。それはウワサの流通自体、ウワサを流すヒトではなく、ウワサを聞くヒトが「そう思うか」どうかにかかっているからだ。逆に、誰もが「裏で何かやってるんじゃないか」と思う企業なら、ウワサが立てば、「やっぱりそうか」ということになり、爆発的に広まる。

かつて、インターネット等でトラブルを起こし、話題になった企業は、結局、企業体質に問題を抱えているから、そういうことになるのだ。事実、それらの企業は、その後不祥事を起こしたり、コンプライアンスに問題があったり、経営不振に陥ったり、いろいろ問題を起こしているではないか。そもそも問題があるからこそ、いくら隠してもウワサになる。人のウワサとはそういうものだ。ディスクロージャーしていれば、こういう問題は抜本的に解決する以外、対処できない。当然、ディスクローズしようという時点で、キッパリと問題を解決しようという意志も持つワケだ。

これが、情報化社会というスキームを前提として現れる問題である以上、個人にも同じことが起る。世の中には、倫理観、道徳観のきわめて高い人がいる。こういう人達は、自分たちのような志の高い人間と、全く道徳意識のない大衆とが、社会的に区別されないことを、かなり憂慮している。もちろん、志の高い人達なので、自分たちの志の高さを誉めて欲しいということではない。不道徳な大衆に、天誅がくだらないことが、ゆゆしいのである。いわば「神様、仏様は、ちゃんと見ているのだろうか」ということだ。悪がはびこる世の中の腐敗が許せないのだ。

世の中には、不思議なことに「監視カメラの設置」に反対する人がいる。いつも、清く正しく生きている人にとっては、監視カメラが設置されようが、それは何ら困ることではない。たとえば、マンションのごみ捨て場に監視カメラをつけることを考えてみよう。いつも、キチンと日時を守ってごみを出している人からすれば、何ら困ることではない。それどころか、自分がいかにきちんとごみを出しているか、みんなに理解してもらうには、この上ないチャンスでもある。

それに反対するということは、どういうことか。それは、どこか心にやましいトコロを持っているからだ。自分が常に清ければ、なにも心配はない。でも、鬼のいぬ間に洗濯したいし、旅の恥はカキ捨てたいというヒトにとっては、目障りなのだ。もちろん、別に全ての人にディスクロージャーを強制するつもりは毛頭ない。ディスクロージャーしないという選択は、裏でなにかやってるんじゃないか、という詮索を受けるリスクを背負うことになることは理解すべきである。

21世紀においては、世の中を一つのコミュニティーにまとめようという発想自体がアウト・オブ・デートである。清い心を持ったヒトと、邪な心を持ったヒトを、無理に一つの集団にくくろうとするからおかしいのだ。公明正大で倫理観の高い人は、倫理観の高い人同士で、道徳的なコミュニティーを作る。何でも秘密にしておきたい人は、そういう人同士で、こそこそ何でもありのコミュニティーを作る。コミュニティー同士のインタラクションは、最低限にとどめるなり、オンラインを活用し、できるだけ直接顔をあわさないようにする。

情報社会では、何でもありだし、色々なものが同時に並存するし、それぞれの信念にしたがって勝手にできるし、というのがポイントである。「だれでも同条件」は20世紀の産業社会的なスキーム。つまり「リベラル」な発想は、情報化の遅れていた産業社会的な状況下のみで意味を持ったのだ。ムラ社会が好きな人は多い。だったら、そういう人はムラ社会のコミュニティーで暮せばいい。それだけのコト。こっちも、自己責任で行動せよなんて価値観を押しつけるワケではない。言いたいのはただ一つ、自分たちの希望で、こっちの足を引っ張らないでくれ、ということだけだ。



(04/06/11)

(c)2004 FUJII Yoshihiko


「Essay & Diary」にもどる


「Contents Index」にもどる


はじめにもどる