上意下達







日本人、それも日本人の大衆というものは、そもそも相互監視のシステムが働いていないと、遵法精神がない。他人の目がなければ、すぐ勝手なことをやらかす。かつては農村部のように地域の共同体が機能しており、これが、相互監視システムとして機能していた。だからこそ、それなりに秩序が保たれ、ルールが守られてきた。それは、決して倫理観があったワケではなく、単に、相互監視が効いていたというだけである。従って、農村から都市部に集団就職し、ニュータウンの団地等に住まうようになると、この相互監視という牽制が効かなくなる。

昨今、治安がどうの、倫理観がどうのというヒトがいるが、それは単に、相互監視が効かなくなってきたので、「地が出てきた」だけのことである。だから、監視、チェックの仕組みさえいれれば、秩序は回復する。監視カメラを導入とか言うと、すぐ「プライバシーがどうの」という理屈を持ち出して反対するヒトが多いが、なぜそう主張するのか考えてみれば、彼らの本性はすぐ見通せる。要は、そもそも根っ子のところで倫理観が欠けているのだ。規律を守る気がないからこそ、監視されるのがイヤなのだ。

さて、近代の組織論は、もともと欧米からはいってきたものである。従って、近代西欧的なスキームがその前提となっている。このため、組織の構成員は、ある種の自己責任がとれることを前提にしている。それは軍隊や鉄道のような、ヒエラルヒー型の上意下達組織であっても同じコトだ。たとえば、軍隊で考えてみよう。兵隊に対して絶対的な命令を出すのは上官である。この条件は変らない。しかし、一旦戦闘の火蓋が切っておとされたら、そこから先は自分の責任と判断だけの世界だ。

一人一人の兵士のミッションは、自分の命を守りつつ、敵を撃滅し、敵の陣地や要衝を掌握することにある。部隊単位で行動するとはいっても、弾が飛び交えはじめれば、結局は一人一人で行動しなくてはならない。味方といっても、最後は自分だけが生き残るべく闘うことに精一杯になってしまうからだ。このように、実際の戦闘の場面では、上意で示される部分と、そこから先の自己裁量で判断し、結果を出さなくてはいけない部分とが両立している。命令に従っていれば、それだけでうまく行くという類のものではない。

鉄道も同じだ。決められたダイヤ通りに運行する、というのは「命令」である。それに疑問をさしはさんだり、反対する余地はない。しかし、ダイヤ通りに運行するための方法論については、運転士の自己責任である。天候や気候、列車の積載量、車輛そのものの調子。列車の運転には色々な不確定要素があり、ダイヤ通りに運行するコトを難しくしている。これらを勘案し、難しい条件の中でもダイヤ通りの運行を実現することは、運転士に任されており、自分の責任において判断し、行動し、結果を出すことが求められる。

このように、自己責任型組織の対極にあると考えられている「上意下達型組織」であっても、それが近代的自我を持つ個人から構成されていることが前提となっている。近代的個人を前提としなくては、組織は機能しない近代社会の組織とは、すべからくそういうものなのだ。ところが、日本ではその前提となるべき「責任ある個人」が、大衆レベルにおいては確立していない。確立しない状態のまま、制度としての近代組織は、軍隊にしろ、官僚制にしろ、企業にしろ、富国強兵のスローガンの下、なし崩し的に導入されてしまった。

とはいうものの、明治から戦前期においては、例の「密教徒vs.顕教徒」の構造の中で、「責任あるエリート」が責任をとり、「無責任な大衆」の組織を運営する仕組みがまがりなりにもあった。まさに、ノブリスオブリジェを体現できる貴族としての「サムライ」が存在し、それがリーダシップをとれる限りにおいて、相互監視のシステムも、チェック機能も、充分に働いていた。だからこそ接ぎ木的に導入された組織論でも、それなりのパフォーマンスを上げることができた。

戦時体制以降、「顕教徒」だけになった日本社会は、このタガが外れた。太平洋戦争期の軍部の暴走も、この無責任組織のガバナンスのなさがもたらしたものだ。そして半世紀後、その行きついた姿が、不祥事を繰り返す企業のような、「甘え・無責任」人種だけで構成された企業だろう。会社や軍隊のような「合目的的組織」というものが、近代西欧の産物である以上、組織人とは、近代的な個人を前提としている。自己責任をとりうる個人だからこそ、組織人たりうるし、組織も自律的に機能する。

日本においては、その枠組だけが輸入され、「無責任のためのシステム」へと、換骨奪胎されてしまった。所詮、ここに無理があった。日本の大衆は、そもそも組織人たるだけの素養を持ってはいなかったのだ。上意下達とは、責任を上に押しつけ、監視の目の届かないところでは、下のものはやりたい放題勝手をしても許される、ということになってしまった。幸い、時代そのものが変化した。近代産業社会的な意味での「組織」は、必ずしも必要とならない時代がやってきつつある。それならもう一度、「密教徒vs.顕教徒」の構造を前提に、ガバナンスのあり方を考えてみればいいではないか。この方が密教徒も顕教徒も、どちらもよほど幸せになれるのだから。




(04/06/18)

(c)2004 FUJII Yoshihiko


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