偏差値エリートの幻想





少なくとも、20世紀後半の日本社会においては、嘆かわしいことに、エリートとは単に偏差値が高いだけのヒト、という意味に成り下げられてしまった。しかし、真のエリートは、偏差値エリートはそもそも異なる。元来エリートではない偏差値エリートが、社会的に脚光を浴びる存在になってしまった裏には、それなりのモチベーションがある。そもそもエリートと非エリートを峻別するものはなにか。それは、人徳や倫理観、教養、といった文化的背景だ。言い方を変えれば、ノブリス・オブリジェを持っているかどうか。そういう意味では、本来のエリートとは、西欧の貴族、日本のサムライ、中国の士大夫、韓国の両班といった、階級的存在なのだ。

さてアメリカの二大政党といえば、民主党・共和党である。そういうこともあって、日本においてはこの両者は、資本主義、自由主義的概念であり、君主制や共産制と対立する概念として比較的近いイメージでとらえられがちだ。しかし、これは実は大いなる誤解だ。この両者は、次元の異なる概念であり、特に大衆民主制と共和制とは対立する概念でさえある。民主主義、特に大衆民主主義とは、大衆自体が政治主体となり、自分で政治に関する判断を行うコトを前提としている。一方、本来の共和制においては、高度な見識と道徳心を持った政治的エリートが、人々から付託されて政治的判断を行うコトを前提としている。

これは、共和制が生まれた時代、まだ階級社会だったヨーロッパにおいては、高い道徳心や倫理観を備えた階級がいたコトに起因している。共和制と君主制は概念として対立することがよく知られている。しかし、それは「権力の基盤を何により担保するか」という違いによる対立である。王権神授説ではないが、アプリオリに絶対的な権力を規定し、それにより基盤を担保するのが君主制だ。それに対し、個々の政治エリートが、その倫理観や教養、滅私の精神といった道徳心により、基盤が担保されるというのが共和制である。どちらにしろ、大衆一人一人に、政治的権力の基盤があるというワケではない。

このように政治的エリートは、ノブリス・オブリジェを持っている存在だ。しかし、大衆は私利私欲しかない。この違いゆえ、共和制の時代から大衆民主制に移るときに、自由の意味の変化が生まれている。共和制の時代においては、自由とは「公的な自由」である。自己判断で行動していいが、そのバックグラウンドとして、あくまでも公共精神に基づいた責任ある行動をとることが求められる。一方、民主制の時代には、自由とは「私的な自由」に変質してしまった。自由とは、個人が無責任に好き勝手できることヘと堕落した。

まさに「自立・自己責任」vs.「甘え・無責任」、「密教徒」vs.「顕教徒」の構造的対立の原点がここにある。だからこそ、だれよりも一番この「共和制」の概念に対立するものが、大衆社会における「オピニオンリーダー」たる、「大衆のエリート」である。たとえば、官僚とインテリ、軍人などがそうだ。一番俗人根性に溢れた、大衆的なヤツが、偏差値だけでなりあがれるステータスだ。いいかえれば、地位に溺れる堕落の最たるもの。こういう連中には、箸にも棒にも引っかからないやつが多いのも納得できる。

そう考えていくと、産業社会特有のいわゆる「中流」意識というものが、いかに空虚なものか明らかになる。世の中には、元来「中」はない。「中」と言いたがるのは、定量的には成り上がったものの、中身がついてこない人間の自画自賛でしかない。生活レベルで言えば、「まん中へん」が多いのは確かだ。そもそも定量的に把握すれば、正規分布に近くなる。だからといって、「中くらい」なクラスタを設定してしまうことが正しいワケではない。年間所得や消費支出が一緒でも、消費構造や消費意識が違えば、同じクラスタに分類できないのは当然だ。

オマケに、産業社会の時代における社会階層の見方は、極端に「キャッシュフロー」に寄っている。単に「消費者」としてしか見なければ、人間は財布の中身でしか計られなくなってしまう。しかし、年収1000万円だったとしても、借入金がなく、純粋な金融資産で1億以上持っているヒトと、資産が持ち家しかなく、それも住宅ローンの債務と比べると、未返済の借入金の方が多いヒトと、比べればすぐわかるが、これが生活構造上、同じクラスタになることは極めてマレだ。

ということは、どこまでいっても、階層構造は基本的に「上」と「下」しかない。「上」は人徳、倫理観、教養という伝統を背負っている人々。「下」は、そういうモノとは縁のないところで暮してきた大衆。この相容れない二つの流れの中では、「中流」とはまさしく幻想であり、机上の論説からのみ導き出される観念的な捉え方である。「中」とは、少数の「上の下」と多数の「下の上」を、キャッシュフローという面から強引に一くくりにして捕らえ、一つの集団をでっち上げた概念なのだ。

民主主義的悪平等主義に基づき、元来構造的に異質なものを、「キャッシュフロー」という一面的な視点で、強引に一つにまとめてしまった。中流とは、まさに「作為」の産物である。このような発想が現れるのは、大衆ならではの求心力、集団への同化意識に起因している。「下の上」ではイヤなのだ。強引に「上の下」も「自分の同類」としてとり込まなくては、自分たちの立つ瀬がない。この大衆の持つ数の暴力、平均値への求心力が強力に働いた場が、「中流」意識なのだ。

まさに、中流幻想とは、「密教徒」と「顕教徒」の同床異夢の同居でしかない。それは結局、社会全体の縮図であり、その集団を一つにくくったところで、日本社会全体が持つ矛盾や歪みは、何一つ解決しないことになる。昨今、階層化が進んでいるといわれる。ここに至って、キャッシュフローとは関係なく、純資産の大きさが、そのヒトの「格」に大きく影響することが、そこここで言われるようになった。歴然と上下はあるのだ。いまこそ、「上の下」か「下の上」か。自己アイデンティティーが問われている。



(04/06/25)

(c)2004 FUJII Yoshihiko


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