情報操作






なんとも盛り上がりに欠けるが、参議院選挙がはじまった。こういう時期になると、決って議論されるのが、「果たして大衆の世論は操作できるのか」ということである。それもヤケになっているのか、どちらかというと「劣勢」な陣営から良く聞かれる。では、ほんとにそうなのか。「操作できる」と思う向きもあるだろうが、そんな簡単なハナシではない。かれこれ20年以上、広告やメディア関連の仕事をしてきたが、それができたなら、「ヒット」させるのは簡単なはずだ。しかし、そうは問屋がおろさないのが大衆なのだ。

たとえば、テレビの番組についてでも考えてみればいい。視聴者にアクセスできるという意味では、各チャンネルとも条件は一緒だ。東京では、地上波でも7つのチャンネルがあるので、少なくともこの7つの番組は、同じように視聴者に「訴える」コトができるハズだ。大衆にアクセスできれば世論が操作できるし、ヒットするというのなら、7つが7つ、どれもヒットしなくてはおかしい。だがこの中で、ヒットするのはひとつかふたつ。あとは低視聴率で打ち切られ死屍累々というのが現実だ。

このように、いかに大量に情報のシャワーを降らしたところで、それが即、世論になることはない。インフラやメディアは「手段」にこそなれ、それがあるからといって、世論を操作したり、ヒットを創り出したりできるわけではない。大事なのは、コンテンツ、中身なのだ。中身が人々を引きつけてはじめて、ヒットする。これは裏返せば、情報の中身が人々の心を捉えない限り、世論の操作などできるわけがないということになる。

ある程度、送り手の側にいる人間なら、コンテンツの競争の激しさをイヤというほど知っているから、「メディアの神話」などハナから信じていない。まあ、現場から遠ざかってしまった一部の新聞のトップは、勘違いしているかもしれないが。その反対に、一般の「大衆」ほど、メディアや権力による「情報操作」が可能と信じている傾向がある。それは、大衆一人一人が、自分の中に価値基準がなく、廻りの人間が何をやっているかを過度に気にしているがゆえの思い込みだ。

確かに、一人一人については、その通りだろう。「みんながやっている」と言われれば、気になって自分もやってしまう。しかし、大衆の本質は、そういう「1対n」の関係にあるのではない。大衆に属する個人がそれぞれ、インタラクションを持っているところにある。まさに「n対n」の関係が形作られている点だ。もっと直接的に言えば、大衆とは「みんながみんな、「となりの芝は青い」とばかりに、相互に気にし合う状態」になっている。これが、ある種、大衆が「群衆」として、自律的に動き出す理由でもある。

たとえば、20世紀において「ファシズム」が登場し、大きな影響力を持った理由を考えてみよう。ファシズムと大衆とは密接な関係がある。ファシズムとは、「無産者」が熱狂的に支持して成立した、民主主義の不肖の息子であるといわれる。近代産業社会の大衆に特有の現象としての、階級の崩壊、アイデンティティーや帰属意識の喪失。このような新しい政治環境は、大衆をして、従来の政治の枠を越えた主張への共感ヘと走らせた。それが、荒唐無稽であっても、実現不可能であっても、まさに「みんなで信じれば恐くない」し、そういうぶっ飛んだものだからこそ、みんなで熱狂的に信じれるのだ。

かくして、大衆は、自らのアイデンティティーに変るものとして、大言壮語や誇大妄想的ヴィジョンを渇望するようになる。「群集」が一つの集団であるために、なんとか「よりどころ」なり、帰依できるコンセンサスを求めるのだ。従って、そのヴィジョンは、大衆の「琴線」を押さえていなくてはならない。どんなに口当たりがよく、どんなに壮大なヴィジョンであっても共感を呼ぶことはない。それを効率良く広めるためには、カリスマ的指導者の役割は大きい。しかし「琴線」を無視しては、どんなカリスマも、パワーを発揮できない。

一見逆説的ではあるが、自立した個人の集団の方が、その集団の外側にいる人間が甘言で「操作」し、集団を動かすコトもありうる。それは、自立した個人は、自分が気に入りさえすれば動くからだ。学者の派閥などに典型的に見られるが、ロジカルに行動する人たちであれば、外側からロジカルに動かしやすい。理系のヒト程その傾向は強いが、充分に説得力のある論理で説明されれば、納得し、趣旨替えすることも珍しくはない。あたかも、天動説を信じていた学者の間に、だんだんと地動説が受け入れられたように。

しかし、大衆はそういう行動は取らない。大衆一人一人は、それぞれ自分の相似形としての「隣の人」を通してしか、自己認識ができないからだ。また、自分の好き嫌いだけで、自己の行動を決定できない。常に、「その判断の結果、他人が自分をどう思うか」というバイアスに、過剰に反応するからだ。一般的な男のコが、自分の好みの女性について語るとき、そこに誰か他人がいると、自分が本当に好きなタイプではなく、一般に「いい女」「美人」と呼ばれているタイプが好きだといってしまうようなものだ。

つまり、大衆は、その集団全体の「規定値」として、共有されているものしか規範とできないのだ。そうであるなら、大衆のカリスマ的リーダーとは、とりもなおさず、この「規定値として共有されている規範」を見ぬき、それをプロパガンダ化できるヒトである。確かに、アジテーターとしての実力とか、ヒトを引きつけるインパクトとかは、カリスマたる前提条件になる。しかし、カリスマがファシズム的なリーダーとなるには、その主張そのものがリーダーのオリジナルではダメなのだ。自分勝手な主張では、いくら優れたアジテーターでも、大衆は誰も聞こうとはしない。

これはまさに、ヒットの構図と同じ。ヒットの黄金律はない。ヒットの「仕掛け」もない。人々が意識下に持っている渇望感。これを見抜き、実現することが遠回りでも、ヒットのカギなのだ。そのポイントは、相互に相手の行動を気にしている大衆同士が、ヒトに出しぬかれたときに一番「やられた」意識が強くなり、自分もなんとか追いつこう、とヤッキになるのは何かを知るコトだ。隣のヒトが手に入れてしまったときに、となりの芝が一番青く見えるもの。これこそがヒットのカギであり、大衆を動かす秘伝だ。そしてそれは、どこまでいっても大衆の潜在意識の中にしかないコトを知るべきだ。


(04/07/02)

(c)2004 FUJII Yoshihiko


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