少子千万






この前の国会が尾を引いて、年金問題が、何とも盛り上がらない参議院選挙のネタの一つになっている。特に、今後の年金負担計算の基礎になっていた、今後の出生率の予測が、実は想定以上に低下していたということが問題視されている。それが、意図的な「隠し」かどうかは別にして、またぞろ少子化が話題となっている。前からここでも何度か述べたが、結局少子化は、「問題の本質」ではなく、大きな構造的問題が引き起こした一面的な現象である。だからこそ、問題解決には、構造的問題自体を解決しなくてはならない。

この問題は、巷で議論されているような「対症療法」では意味がなく、原因自体を根絶しない限り、完治しない。では、この問題の本質とはなにか。それは、近代の家族制度自体が、日本に合っていない点だ。西欧から移入された「近代産業社会型の家族の規範」が、日本の伝統的なメンタリティーと合わないことが、そもそもの問題なのだ。「甘え・無責任」の大衆は、基本的には伝統的メンタリティーに強く規定されている。家族観、家庭観といえども、その範疇にある。

そもそも日本では、こと庶民層においては、母系家族が基本形態となっていた。男性に対する選択権は、常に女性の側にあった。この事実を忘れてはならない。たとえば、農村共同体の大家族においては、近年まで「夜這い」等の習慣が行われており、子供は、父親が誰かというコトを問われることなく、母系の大家族の中で子育てが行われていた。男性主体の家族制度は、あくまでも「武家」に特有のものであり、鎌倉時代以降、それも支配階級の内部でのみ広まっていたにすぎない。

明治以降の家族制度は、伝統的な日本の家族制度とは関係なく、この「武家」的なフレームと、西欧近代の家族制度の共通集合として「創り上げられた」ものである。そもそも支配階級でも、平安時代までは母系共同体の絆が強かった。「源氏物語」でもおなじみのように、貴族においても「通い婚」が行なわれていたし、藤原氏の栄華のように外戚が権勢を振るったり、といった事実をみても、母系が基本にあったことが見て取れる。

本来なら、こういう「移入された家族制度」が機能するコトは難しい。しかし、貧しい時代においては、「まず豊かになる」ことが最優先され、そのためには多少の齟齬も問題にはならない。そればかりか、豊かになる手段という意味では、積極的に取り入れるコトもしばしば行われる。日本における明治以降の「産業社会型家族」も、その居心地や肌合いはさておき、「追いつき追い越す」ための方法論としては是認され、共有されていたと考えて間違いはない。

20世紀型の社会規範が意味を失い、21世紀型の新しいスキームが求められている以上、家族制度も同じコトである。そして、21世紀型のスキームは、産業社会的な世界均一のスケール性を求めるものではなく、より伝統に根ざした、新しい共同体構造の再建にこそ求められる。これを前提に考えなくては、少子化の問題は解決しない。さて少子化の問題は、分解して考えると、結婚率の低下と、子作りへのモチベーションの低下に分けて考えることができる。それぞれについて、産業社会的な家族のあり方をチャラにして、ゼロからありうべき姿を考える必要がある。

結婚率の低下にしては、初歩的なマーケティング理論で解明することができる。貧しく飢えている時代においては、モノの基本機能や基本価値についてのニーズが高いため、欲しかったモノが手に入らない場合、似たような商品があれば、質の悪い二級品でも「背に腹は代えられない」とばかりに、代替品にニーズが振りかえられる。腹が減って減って仕方ないときには、実はカツどんが食べたかったとしても、売り切れなら、ラーメンでもザルソバでも、ひとまず食えれば何でもいい、ということになる。

しかし、豊かになると、基本的な生理的欲求は満たされてしまっているため、欲しいものが手に入らなければ、そのニーズ自体がシュリンクしてしまう。ロレックスの特定モデルが欲しいヒトの欲求は、そのモデルでなくては満たされない。そもそも時計の「機能」を求めているのではないのだから、他の時計で代替できるワケがない。だったら、より高価なブルガリなら代替できるかというと、それもできない。そのモデルが手に入らなければ、そのお金はそのまま手付かずか、あるいは海外旅行の費用になってしまうだろう。

男についてもこれと同じコトだ。満たされた生活をしている女性にとっては、甲斐性のない「二級品の男」などいらない。その一方で、本当に自分が結婚したいと思うような男性は、そもそも人数が少ない。世の中の男のほとんどは、「二級品」ばかりだからだ。「結婚」自体が目的ではなく、甲斐性のあるいい男と暮したいワケだから、これでは結婚する意味がない、ということになる。従って「一夫一婦制」を取る限り、「結婚しない方がいい」と思う女性が多くなるのは必然だ。

これに対しては、伝統の復活が効果的だ。つまり「母系家族の通い婚」を復活させ、崩壊しつつある「一夫一婦制」に取って代わらせる。これなら、甲斐性のある男を、複数の女性がシェアできるワケで、モチベーションも上がるというもの。女性のほうからしても、独身時代の生活パターンを変える必要がないだけでなく、TPOに合わせて、欲しいときに欲しい男を自分のものにできる。この十数年来、母娘の一体化の進展が取りただされることが多いが、こういう「母系制」の復活だと思えば、喜ばしいことではないか。

一方「子作りへのモチベーション」については、問題は明確だ。要は「子供のせいで、自分の生き方を束縛されるのはイヤ」だし、「子供の面倒を見るのは面倒」というだけのこと。子育てを面倒がる傾向は、なにも今に始まったことではない。そもそも核家族にならなくては、親がそういう責任を負わされることはなかったからだ。こういう責任を、肉親、それも母親が中心となって取るようなスキームは、日本においては高々明治この方。100年かそこらの話でしかない。

伝統的な大家族の中では、親対子供で一対一に面倒を見るのではなく、誰が誰の面倒を見るということなく、手の空いた者が子供の面倒を見るのが当り前だった。農業機械のない時代、農繁期などは、男女を問わず若い労働力は総出で田畑に出なくては、やるべきタイミングで、やるべき作業がこなせない。当然、子供たちの世話は、肉体労働に耐えない老人が担当するし、そういう「業務分担」でウマく行っていた。「甘え・無責任」な共同体だが、無責任な裏には、こういうメリットもあるのだ。

これまた、「一夫一婦制の核家族」などという、日本の庶民の伝統にそぐわない制度を、「追いつき追い越す」ための手段として導入したがゆえの歪みだ。21世紀においては「共同体の復活」がキーワードであるのは確かだが、その共同体は、必ずしも、かつての地縁血縁をベースにしたリアルなものではなく、ヴァーチャルなものも多く含まれる。したがって、共同体そのものに子育ての責任を負わせるわけにはいかない。ここは一つ、公的制度が必要になる。

全ての子供に対し、時間や病気に関わらず、フルタイムで0歳からの保育を保証する制度さえ完備すれば、この問題は解決する。旧共産圏では、そういう託児制度が充実した国も多かった。どうせ「甘え・無責任」な日本は、世界最後の社会主義国家なのだから、ちょうどお似合いではないか。これを公費でやったとしても、今行われている「公共事業」ほどには金はかからない。そればかりか、経済効果という面で見れば、公共事業より雇用効果は抜群である。その上、仕事の内容からして、そういう経験が豊かな高齢者ほど、そのノウハウや経験が活かせる業務であり、高齢化社会の雇用安定と言う意味でも、大きな役割がある。

このように、少子化の問題は、近代産業社会型の家族スキームが、実態に合わなくなっているがゆえの「矛盾の発露」でしかない。それは、近代社会型家族を前提にしている限り絶対に解決しない。しかし、そのスキーム自体を疑ってかかれば、答えを出すのはいたって容易だ。問題は、あくまでも近代にコダわって、その制約の中で答えを出そうとするのか、21世紀ならではの新しいスキームを構築するのかだ。こんな簡単なコトもわからないようなヒトには、ご退場願いたいものだ。
(04/07/09)

(c)2004 FUJII Yoshihiko


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