責任のありか






責任とは、そもそも相手があってはじめて生じるものである。無責任社会の日本では、そもそもそんな当り前のことさえ、新鮮な知識になってしまうかのごとき感があるが、とにかく、責任というのはインタラクティブなものなのだ。となると、その相手がいないときにどうするか、という問題が生じる。並の無責任な方々でも、契約したり、約束したりすることは日常的にあるワケで、それなら、少なくとも誰か第三者に対し責任を取るコトは、できないワケではないようだ。問題は、その「第三者」がいないときどういう行動を取るかだ。

大方の日本人は、「第三者」がいないと「鬼のいぬ間の洗濯」になってしまう。ここにおいてこそ問われるのが、「自己責任とはなにか」ということだ。それは、自分が自分自身に対して義務を課し、自分が自分自身に対して責任を取れるかということ。このように、「第三者」がいなくても、誰かが監視している時と同様に、常に義務を果たし、責任を負うことができるというのが、「自立・自己責任」の本質だ。

誰かが見ているときだけ、自分を律するヒトはそれなりに多い。見られている時にキチンとするというのは、決して難しいことではない。だからこそ、「甘え・無責任」な人々からなる集団でも、共同体の相互監視機能が残っている間は、それなりに秩序が維持されてきた。その「無責任」さがストレートに現れるようになったのは、旧来の共同体が崩壊し、バラバラの匿名の個人の集合体としての、近代の「大衆」が生まれてからだ。このように、自己責任の問題は、誰も見ていないときにどう行動するかにかかっている。

このように、「誰か他人に対して責任を持つ」ではなく、「自分に対し責任を持つ」ことが、本質的な責任能力があるかどうかの境界線となる。自己責任とは、単に「自分で責任を取る」ことだけではなく、常に「自分に対し責任を持つ」ところに特徴があるのだ。だから、自分に対して責任をとれるヒトは、自分一人しかいない状態でも、甘きに流れることがない。言い方を変えれば、どこの誰よりも、自分自身の方が自分に対して厳しいということになる。

常に自分に妥協せず、自分をコントロールできる。これができれば、自分の感情や行動を、他の誰よりも厳しく見つめ、律することができる。「ヒトが見てなければ、楽をする」ような発想をしている限り、本質的には無責任である。約束を守れるか、ウソをつかないか。ガマンができるか。これらは、全て「自分に対し責任を持つ」ことによってのみ達成できる。まさに、「世間」や「社会」が介在しなくても、高いモラリティーをキープできることになる。これが、ノブリスオブリジェの本質、気高さの本質だ。

これは誰にでもできるコトではない。「自分に厳しく生きること」は、それ自体一つの才能であり、できるのは選ばれた人間だけだ。また、それが「才能」である以上、単純に「自己責任DNA」のなせるワザとは言わないが、ミームも含めて「遺伝的」に受け継がれるものであることは間違いない。中国語で言えば「自分に厳しく」することができるのは、「能」であり「会」ではない。後天的に、努力や勉強して身につくたぐいの「技量」ではない。だからこそ、これができる人材は貴重なのだ。

親が「自立・自己責任」で生きているなら、子供が「自立・自己責任」になる可能性は、親が「甘え・無責任」の家庭でそだった場合より、確率的には高くなる。もちろん、個別に見て行くと、親が「自立・自己責任」でも、子供が「甘え・無責任」になってしまう場合もかなりあるし、親が「甘え・無責任」でも、子供がそれを反面教師として「自立・自己責任」になる場合もないわけでない。しかし、母集団が大きくなれば、少なくとも統計的には有意な差がある。

自分で自分を律せないヒトに、自己責任をとらせようと思っても仕方がない。それは、「無理だ!」。だからこそ、そういうヒトに自己責任が求められるような仕事を押し付けたり、ポストを押し付けたりする方が間違っている。近代社会においては、悪平等がはびこったため、生まれながらの能力差も、努力で何とかなると勘違いしてきた。それは逆だ。努力しないのがいけないのではなく、努力しても無理なヒトに責任を押しつける方がいけないのだ。何事も「分相応」が大切。21世紀は、自分を知り、「分」をわきまえることが必要な社会なのだ。


(04/07/23)

(c)2004 FUJII Yoshihiko


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