原因と結果






物事には、原因と結果、そしてその因果のプロセスが必ずある。何が原因で何が結果かは、ちょっと考えればすぐわかりそうな気がする。ところが、世の中の話を聞くと、その多くが、原因と結果を取り違えているか、原因とプロセスを取り違えている。それは、原因はすぐには見えないモノである一方で、プロセスと結果は誰の目にも見えているからだ。原因をキッチリ捕まえるためには、戦略的視点からの分析が必要だ。各論ではなく、総論の構造をしっかり理解していなくてはできない。

ところが、日本人には、戦略的発想が不得意なヒトが多い。戦略的発想が不得意ということは、現象面だけ見て、構造的に捉えることが苦手ということだ。氷山の一角として現れた現象から、その裏に隠れている真相を見ぬくのは、これでは不可能だ。戦術的に、現実を演繹的に見ていっても、プロセスと結果は捉えられる。しかし、これではいつまでたっても、そのダイナミズムはわからない。それゆえ、プロセスが原因でその結果が生まれたように感じがちなのだ。

さて、インターネットの普及により、俗に「困ったチャン」と呼ばれる、場所やTPOをわきまえずに行動する人々の事例が目につき、目に余るようになってきた。実はこういう「困ったチャン」は、インターネット前夜の「パソコン通信」の頃から、良く目に付くようになり、問題視されてきた前史がある。そもそも「困ったチャン」という言い方自体も、NIFTYのFORUM等で使われていた用語である。そんなこともあって、「困ったチャン」を、社会の情報化が生み出した鬼っ子のように捉える論調は多い。

しかし、「困ったチャン」は、インターネットやコンピュータの普及により生み出されたものではない。「困ったチャン」が顕在化してきたプロセスとして、インターネット等が果たした役割は確かにあると思うが、それはあくまでもプロセスであって原因ではない。そのヒトが「困ったチャン」になるのは、そもそも彼に社会性が充分備わっていないからであり、原因はこちらの方にある。こういう事例については、すでに1944年にオーストリアの医師アスペルガーが発見し、「アスペルガー症候群」と呼ばれている。

古くは、認識(理解)の発達と関係(社会性)の発達とは、ひとくくりに「精神の発達」として捉えられてきた。確かに、この両者は車の両輪の様に、深く関係しながら発達する場合が多いのだが、実は別の事象である。それは、「認識も関係も発達している」「認識も関係も遅れている」という事例だけではなく、「関係は発達しているが、認識は遅れている」「認識は発達しているが、関係は遅れている」という事例も少なからずあることが確かめられたからだ。この中で、「認識は発達しているが、関係は遅れている」例が、アスペルガー症候群である。

発達度合いのバラつきが正規分布を取り、各々の発達が互いに独立なものである以上、この領域に区分される事例は必ず存在する。かつては、こういう人たちは、他人と接しなくても構わないような仕事や生活を選んでいたので、一般の健常者と接することがなかった。しかし、コンピュータネットワークが発達すると、実は人間同士のコミュニケーションであるにもかかわらず、やっていることは機械操作なので、「アスペルガー症候群」のヒトでも臆することなく出来てしまう。その結果、ネットワークの向こう側にいる健常者に対して、多大なる迷惑をかけている、ということなのだ。

同じようなことは、引きこもり、登校拒否、少年犯罪等についてもいえる。ある特定の個人がこれらの行動を取るに至る原因は、あくまでも本人の中にある。過激な漫画やTVゲームが、犯罪の原因になる、という主張も良く耳にするが、それでは、同じ漫画を読み、同じゲームをやった人間の中でも、大多数の人間は犯罪者にならず、特定の一人だけが犯罪者になってしまう理由を説明できない。もちろん、この場合もプロセスとして何らかの影響がないとはいえないだろうが、決して原因ではない。

これにより引き起こされる滑稽な議論としては、「教育問題」がその最たる例だろう。教育は、どこまでいっても手段であり、プロセスでしかない。同じ教育を受けても、マトモに育つ子もいれば、おかしくなる子もいる。教育は原因足り得ない。あるクラスの全員が、ある日を期してみんなグレて補導されてしまった、とでもいうように、百発百中で起る現象なら、教育が原因という推測もありうるが、両方の可能性がある以上、原因ではない。現象面しか見えないヒトにとっては、原因は理解しようがなく、認識できるのは、プロセスと結果だけだからこそ、「教育問題」が問いただされるのだ。

さて、この原因と結果の誤認は、社会問題だけでなく、ヒットやブームをどう捉えるかというときにもよく引き起こされる。たとえば、電話の個人財化は、携帯電話の登場・普及と共に語られることが多い。しかし、それは間違いだ。1970年代末から、一人暮しをはじめる若者が、まず手に入れるものは、テレビから電話に変った。この時期には、電話を申し込めば、すぐに工事し開通するようになったこともあり、一軒の家の中に、複数の回線を引き込む家庭も現れた。まさに、このときから「個電化」は始まっていたのであり、それがベースにあったから、携帯が爆発的に普及したいうのが真相である。

また、70年代末に登場した「ウォークマン」の大ヒットも、同じような例だ。ウォークマンが出たから、歩きながら音楽を聞く人たちが現れたのではない。70年代の前半から、音楽の好きな若者は、大きなラジカセをぶら下げ、大型のクローズドタイプのヘッドホンを被り、歩きながら音楽を楽しんでいた。そういうヒトがいた以上、歩きながら音楽を楽しみたいヒトはもっといたはずだ。しかし彼らも、大きなラジカセを持って歩くのはちょっとと思っていたからこそ、ポケットに入るウォークマンに飛びついたのだ。

このように、常にニーズは潜在的にあるものであり、ハードウェアの提供や、環境の変化で創り出せるモノではない。ハードや環境は、潜在的な意識を喚起し、顕在化することだけなのだ。ということは、マーケティングのカギとなるのは、この「真の原因」を捕まえられるかどうかである。そのためには現象を見ていてもだめ。その奥にある深層を読みきらなくてはいけない。しかし、これは難しい。誰にでもできることではない。ましてや、極めて現実的な「戦術」しかわからない日本人では、である。原因まで見ぬける眼力のないヒトは、せいぜい、眼力のある人間を見つけて重用すべきということだろう。



(04/07/30)

(c)2004 FUJII Yoshihiko


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