金は天下の廻りモノ







「資産家」である条件は、どこにあるのだろうか。それは、個人レベルで、すでにB/S、P/Lの概念があるところではないだろうか。資産は、キャッシュフローとは違う。キャッシュフロー分は使い果たすことがあっても、資産を食いつぶすことは許されない。いくら手元に現金がたくさんあっても、この違いがわからない間は「成金」だ。資産を、永続的に維持し、拡大する極意がわかっていてこそ、「資産家」たりうる。そう考えていくと、日本には本当の意味で「資産家」と呼べるヒトは、極めて少ないことが理解できるだろう。

その対極にあるのが「無産者」だ。基本的には、キャッシュフローの出と入の差が、一時的に手元にあるだけの存在だ。だからこそ、「宵越しの金は持たない」ということになる。フローのみであり、ストックの概念はない。この場合、手元にある現金の多寡は、問題にならない。財布にキャッシュフローが溢れていても、手をつけてはいけない「資産」がないのなら、無産者である。もっというなら、彼らには債権債務の概念もない。財布の中身しか理解できないヒトが、目に見えない債務を理解できるわけがない。だから借金を踏み倒すし、ローン破産する。

この両者を分けるものは、意外と根深いものがある。すでに江戸時代の商家では、キチンと資本と収支を分けて考える「経営哲学」ができていた。商家にとっては、家=資本である。まさに、それ自体は資産という無形の存在でしかない「資本」を、「家」というカタチで具体化し、その維持・存続を捉えやすくした。だからこそ、商家の当主は、「家」の存続=資本の維持・拡大 を第一の目標とし、そのためには、個人の贅沢や浪費をつつしみ、キャッシュフローの中から生まれる「限られた収益」を極大化することを、その最大の目標としてきた。

多くの商家に伝わってきた「家訓」が、それを示している。資産家のもつストイックさは、この伝統の産物である。同様のプロセスは、江戸時代においては、商家のみならず、大地主や手工業の資本家などにおいてもみられた。しかし、これは社会一般に広まることはなかった。あくまでも、維持・拡大すべき資本という「責任」を負わされた、一部の階層のみのメンタリティーだった。その一方で、多くの庶民は。甘え・無責任なままに、金は天下の廻りものとばかりに、うたかたのように流れて行くキャッシュフローの中で、欲望のままに身を任せていたままだった。

このように、「資産家」であることは、責任を生じさせ、それにしおう人間としての人徳を必要とされるようになる。このため、たとえば岩崎家の静嘉堂文庫のように、文明開化と共に散逸する日本の伝統文化に着目し、その保存維持のために私財をつぎ込む発想などは、この資産家であるゆえの人徳の現れであり、社会的責任の発揮ということができる。儒教的精神と、資産家に求められる人徳・責任が交錯するところには、すでに200年以上前から、CSRの精神が具現化されていたと言うことが出きるだろう。

一方、その対極にあるのが「官僚」だ。彼らは、基本的に試験の点数だけで選ばれ、育ちや器などは問題にならない。基準は偏差値のみゆえ、どんなに人徳が卑しいヒトでも、点数さえ良ければ「偉く」なってしまう。成り上がりたいと願う、人品劣悪なヒトにとっては、これ以上の環境はない。人徳は、資産家でなくては育たない。であるなら、官僚に「資産家」的発想を期待することは難しい。管理できるのは、よくてP/L、せいぜいドンブリ収支である。必然的に、官の管理も、キャッシュフローだけで、ストックの発想がないことになる。

さて、ストックの発想がなければ、永続的に事業を続けることはできない。「官業」の、最大の問題点はここにある。ストックの視点が欠け落ちているのだ。だから、フローレベルでゴマかせれば、ストックレベルがいくら汚くなっても関係ないことになる。これが、官営の事業が行き詰まる理由だ。国債の発行による財政赤字の増加。年金の破綻。旧国鉄や道路公団の債務超過。今まで問題になった官業の構造的問題も、そうかんがえると、ここに原因であることがわかる。民営化しても、「資本」の発想のない官僚が横滑りしてマネジメントを行うなら、これは不祥事を連発する無責任な民間企業と何ら変わらない。

つまり、ことの本質は「民」でも基本的には変らないのだ。たとえば、高度成長期の日本企業における「日本的経営」など、その典型だろう。資金調達は間接金融中心だったため、資金さえもキャッシュ・フロー的に扱うことができた。このため経営上気にするのはP/Lのみで、B/Sの発想が欠落してしまった。もしかすると、売上だけで、利益という発想すらなかったかといったほうがいい。こうなると、キャッシュフローと収支が一体化してしまった、家計簿というか、パパママストアの八百屋の銭カゴである。

このように、問題は「官か・民か」ではない。それでは、利権構造をキープしたまま「民営化」することにより、既得権益を温存しようとした官僚達の思う壺である。役人だって、なぜかこういうところには小賢いので、民営化してもおいしい汁を吸える場所があることがわかると、積極的に「民営化」推進論者になってしまう。「道路公団の民営化」など、その際たるものではないか。キャッシュフローだけを取り繕う、家計簿レベルの管理しかできないか。資本と損益をわけて捉えることができるか。今、日本社会が問われている問題は、こちらである。

そのカギは、ガバナンスにある。ディスクローズし、ガバナンスが確立できなければ、民営化してもなにも変らない。責任能力のない人間に、責任あるポジションを与え、判断を強いるから道を誤ってしまう。逆に制度は官のままであっても、ディスクローズし、責任を負える人材を登用すれば、おのずと道は開ける。そもそも組織のあるべき姿について「哲学」ないから問題なのだ。器を議論しても始まらない。大事なのは、中に入れるもの。責任にしおう人材を、しかるべく登用することがカギなのだ。



(04/08/06)

(c)2004 FUJII Yoshihiko


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