育ちのよさ






ヒトの「育ち」とは何だろうか。それは人格形成過程を通して刷り込まれた、人間性そのものと言うことができるだろう。たとえば、養護老人ホームなどでは、この「育ち」の差が明確に見られるという。痴呆老人になると、意志や理性の力が働かなくなる分、潜在意識の中に刷り込まれた育ちの「地」がストレートに出てくるためだ。たとえば、履物を脱いだとき、育ちのいいヒトはボケていてもきちんと揃えて脱ぐし、育ちの悪いヒトは、脱ぎ散らして知らん振り、ということになる。

後天的な「知識」の教育では、この部分は変えられない。親や廻りの人々の背中を見て、その中から身につける部分であり、まさに環境が刷り込むものだからだ。子供をしつけるには、まず親自身が規律正しくしなくてはいけない理由がここにある。「約束を守れ」「ウソをつくな」と、コトバで教えても、それは身につかない。親自身が厳しく約束を守り、ウソをつかないことを実践して見せてはじめて、子供は学ぶのだ。

まさに、育ちの良さとは「ミーム」である。何代にも渡って、規律正しく生きる「伝統」が伝えられ、その上にのってはじめて、育ちがいい人間を生み出す環境は整えられる。一夕一朝には達成できない。金や努力でどうにもなるものではない。子の親も、そのまた親も、さらにそのまた親も、「自立・自己責任」で厳しい規律を守る。これが、育ちのいい子を生み出す唯一の道なのだ。このように、「育ちの良し悪し」は決定的なものがある。

日本においては、この50年ばかり悪平等意識が先に立ち、人間の価値にとって最も重要なこの「育ちの良し悪し」をあえて無視してきた。その代わり、学校の成績がどれだけいいかというような、偏差値に代表される「定量指標」だけが、人間の価値を示す指標として大手を振ってきた。その結果もたらされたのが、今の無責任大衆社会だ。本質的な人間としての価値を評価せず、勉強の結果得られる試験の成績だけで人間を評価する。これでは、相次ぐ官公庁や企業の不祥事や違法行為も、必然的な帰結とさえいえる。

現状の社会の問題は、誰かに責任を帰せるものではないし、誰の責任でもない。もとより日本はなるべくしてなった「超無責任社会」なのだから、責任の取らせようがないではないか。だから、犯人探しをしても意味がない。それより、無責任社会を築いてしまった過去の流れとは決別して、原点に立ち戻り、本来の日本社会の持っていた秩序やガバナンスを回復する方がよほど建設的だ。

そのためには、日本的な「器の大きさ」や「人徳の深さ」を表す、「育ちの良さ」を基準にした人間の評価を、もっと公然となすべきである。ここまで大衆社会化が進行した日本でも、まだまだ「貴種」に対する畏敬の念というのは強い。民主党の岡田代表が意外なほど高い人気を持っているのも、イオングループという財閥の御曹司にして、東大法学部卒の元官僚という、努力だけでは得られない「後光の輝き」を持っているからだ。

「育ちのいい」人間は、そういう評価がなされていないだけで、今の日本にもそれなりにはいる。もっとも人口比率では5%もいないだろうから、その数が極めて少ないのも確かだが。それなら、そういう人間の価値を認め、ポジションを与えるようにするだけで、状況は大いに改善する。器のある人間を正しく評価し、適材適所で、リーダーシップや人徳が、責任感が求められるポジションにつければいいだけの話である。

人に関わる制度は、システムそのものよりも運用の方が重要だといわれる。たとえば成果評価の制度導入したとしても、肝心の成果ポイントを年功順につければ、たちまち年功制度になってしまう。ということは、逆に制度はそのままでも、運用を変えればたちまち中身が変るコトを意味する。それならば、面倒なことはせずに、「育ちのいい人間」を重視し、重用するだけで世の中は変るはずだ。既得権を守るためには、実は既得権にしがみついていてもだめなことがわかれば、変化は早いのだ。

(04/08/06)

(c)2004 FUJII Yoshihiko


「Essay & Diary」にもどる


「Contents Index」にもどる


はじめにもどる