無責任のオーケストラ






いつもながら、「甘え・無責任」というのは、日本の大衆の特徴だが、その大衆が集まって作る組織にも、やはりその特徴が現れてくる。前にも述べたように、日本人の多くは、組織を「個人が責任から逃れるためのシステム」として位置付け、利用する。組織という迷宮の中に入り込むと、その曖昧で複雑な構造により責任の所在が不明確になる。かくなる上は、純粋に個人の責任範囲さえケアしておけば、誰からも、何に関しても、責任を追及されることはない。

その結果、こと組織的な対応が必要なものについては、あらゆる分野で、日本と欧米との違いが際立つことになる。組織と個人とのインタラクティブな関係において、よりよいものを作り出そうという発想がないからだ。別に、欧米が優れていて、日本が劣っていると言う「追いつき追い越せ」論を展開しようというわけではないが、違うモノは違う。かつては、それがメリットになった時代もあったのかもしれないが、今は百害あって一益なし。

企業組織などでは典型的に見られた、この「無責任の城砦としての組織」という傾向は、日本人の集団ではどこでも見られる。従って、スポーツや音楽でもこの違いは顕著にある。効率や結果が問われるビジネスの世界においては、「自立・自己責任」に則った組織運営をしなくてはパフォーマンスが出ないので、この数年徐々に変化が起っている。しかし、そういう「費用対効果」が明確に問われない領域においては、旧態依然とした組織の特徴が、まだまだ根強く残っている。

たとえば集団で音楽をやるとき、その集団と構成員の関係は、日本的な無責任組織の関係性そのものである。これは、諸外国における集団的音楽への取り組みとは大きく違う。この組織感の違いが、音楽においては、生み出す音楽のクォリティーの違いを生みだしているのだから問題だ。比較的小人数でやることが多いライトミュージックはともかく、オーケストラがつきもののクラシックにおいては、コトは重大だ。

概して日本人のクラシック演奏はつまらない。特にオーケストラの演奏は差が大きい。海外のクラシック演奏は、実に生き生きとしてメリハリがあり、ライブ感に溢れている。ロックやポップスと比べても決してヒケを取らない迫力がある。まさに、今の時代に活きている音楽である。一方日本のオーケストラは、いかにも「やらなくちゃいけない作業をこなしている」という感じが強く、小綺麗にまとまっているかもしれないが、音楽としての迫力、ダイナミズムに欠けるコトが多い。

そもそもクラシック、それもオーケストラでのプレイの魅力は、そのスケールとダイナミズムにある。そのためにアレだけの人数を必要とするのだ。1人前と10人前では、10倍違わなくてはおかしいハズだ。しかし日本のオーケストラのプレイは、押しなべてシーケンサでMIDI音源を鳴らしたようなモノが多い。本来それとは180゜違うところに魅力があるはずなのだが、評価基準も本末転倒になってしまっているためか、それが罷り通っている。日本人がクラシック嫌いになるのは、このせいではないだろうか。

海外のオーケストラにおいては、団員とオケ全体の関係は、欧米的な個人と組織の関係が基本になっている。だから個々のプレイヤーは、キチンと全体の音を聞きつつ、その中でどう自分の個性を発揮するか考えてプレイする。常に緊張感のあるインタラクティブな関係だ。その中で存在感を発揮する。だからこそ、全体の中で一人一人のプレイが際立ち、それが合さって何十人分の迫力を生み出すのだ。

一方日本のオーケストラは、日本的な「無責任組織」の組織論で構成されている。従って、各プレイヤーは、決められた自分のパートを、スコア通りつつがなくこなすコトしか考えていない。決められたことを、決められた範囲で、無難にこなす。この発想は、まさに無責任主義者の責任感そのものだ。自分に責任がなければ、全体がどうなるかは意識の外。音楽のスケールも小さいが、人間のスケールも小さいのだ。

これは、悪い意味の「官僚的発想」の典型例だ。たとえば、お召し列車通過時の警察署長は、自分の管内で事件が起らないことだけしか考えていないという逸話は良く聞く。車列が管内から出ていけば、後は野となれ山となれ。逆にとなりの管内で何か起ってくれれば、出世レースのライバルが一人消えるワケで、心の中では、他所ではなにか事件が起きてくれと思っている。天皇陛下の安全など、実はこれっぽっちも考えていないのだ。

まったく困った限りである。市場原理が働かないということにおいては、官の世界もオーケストラの世界も同じだ。「クサい臭いは、元から絶て」ではないが、市場原理が働くビジネスの世界は浄化されたとしても、こういう旧態依然とした無責任な組織論が横行する世界がある限り、守旧派・抵抗勢力は温存・再生されてしまう。やはり、本当に日本を強くするためには、どんな領域においてもディスクロージャーを進め、競争原理による淘汰が働くようにしなくてはならない。それに耐えるだけの体力は充分あるのだから。


(04/08/20)

(c)2004 FUJII Yoshihiko


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