美しき日本のナショナリズム






若者のナショナリズム志向が強まっているという声は、最近良く聞かれる。しかし、そこで主張されているのは、「自立・自己責任」に基づく、マッチョなナショナリズムではない。彼等が主張しているのは、あくまでも「甘えのナショナリズム」である。その裏には、地域の共同体だったり、大家族だったり、あるいは企業だったりという、「寄らば大樹の陰」の大樹がなくなったことがあげられる。そのため「寄るべき大樹」が、一気に国家だったり、民族だったりまで行きついてしまうのだ。

したがって、そこで語られているのは、現実の日本という国家や民族ではなく、理想の国家や理想の民族を想定し、そこに責任を仮託しているのだ。実はこれが「顕教徒」の本質である。自分の責任を仮託できるものがあれば、なんでも「信者」になってしまう。「顕教徒」にとっては、いままで「民主主義」こそが至上の免罪符だった。自己責任で行動できない人に、政治的権利だけ与えてしまうのであれば、民主主義は政治システムとして間違っている。20世紀後半の日本が、それを証明した。

今の日本の制度のほとんどは、「1940年体制」と呼ばれるように、太平洋戦争中の戦時体制に基本がある。官僚制度然り、教育制度然り、許認可利権や天下り利権も突き詰めればそうである。そして、この「1940年体制」とは、「顕教徒」が「密教徒」に最終的に勝利した、究極の無責任体制でもある。戦後民主主義は、この無責任体制を追認し、そこに「民主主義」という欧米流の錦の御旗を与えたものである。

それまで「天皇陛下」の名前を「無責任」の傘にしていたのが、進駐軍の到来と共に、「マッカーサー元帥」の名前を「無責任」の傘にし出したという事実が、何よりそれを如実に示している。日本の、密教徒と顕教徒の構造を見抜けず、欧米流の「民主主義」を持ち込めば、軍国主義からの構造改革が成し遂げられると考えたのならば、それは連合軍の大きな間違いだったといわざるを得ないだろう。

日本の大衆はしたたかである。どんなもので、「甘え・無責任」の免罪符になるものであれば、喜んで受け入れる。天皇陛下の名を借りた「甘え・無責任」体制は、そのまま進駐軍のもとで温存され、最後に、数の魔法で責任が曖昧になる「大衆民主主義」という、最高の免罪符を手に入れることとなった。表面的な政治体制は大きく変化していても、「甘え・無責任」な大衆の本質は何も変っていない。しかし良く考えてみれば、ナショナリズム志向を強めている人たちは、責任を取れない、取りたくない人達であり、責任を曖昧にしてしまうシステムとして、ナショナリズムを欲しているのだ。

であるならば、なんのことはない。彼らが責任を取らなくていい体制を作ればいいだけのことだ。責任を曖昧にしなくても、誰かが代って責任を取ってくれるなら、彼らのニーズは満たされる。それを実現できるのは、責任を取り得るし、進んで責任をとろうというノブリス・オブリジェの精神を持っている人たちが責任を取り、「甘え・無責任」に生きたいという大衆は、義務も責任もない(したがって権利もないが)状況の中に浸っていられる、「顕教徒」と「密教徒」の役割分担体制を築くことだ。

これは、実はいいことではないか。「寄らば大樹の陰」になるような、強い大樹を作ってしまえばいい。そうすれば、多くの「顕教徒」達は思考を停止し(すでに、ほとんど思考していないので、思考を完全に停止し、というのが正しいだろうが)、全ての責任と決断を「密教徒」達にゆだね、居心地のいい世界に浸りきるだろう。江戸時代のような、責任感のある支配階級たる「武士」が毅然として、私利私欲に動かされない百年の計から国を牽引して行く一方で、甘え・無責任な庶民は、気ままにその日暮らしをしていても、何も困ることのない享楽的な生活を甘受できる。

これこそが、元来の日本における国のあり方である。「密教徒」が密教徒としてノブリスオブリジェで責任を取る。「顕教徒」は快楽主義的に生きる限りにおいては、何をして許される。これが、日本人のメンタリティーを踏まえた、長年の知恵としてのガバナンスのあり方だ。明治維新以来、グローバル的な視点、西欧近代の視点さえも包含し、それらをよりスケールの大きい観点から調和させた、それこそ世界の中の日本らしさの体現である。もしかすると、その実現の日は近いのかもしれない。



(04/09/10)

(c)2004 FUJII Yoshihiko


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