音楽とナショナリズム







団塊の世代に絡んだ音楽論争というと、よく知られたものとしては、団塊の世代を象徴する「政治的メッセージを持ってアジテーションするフォーク」と、それ以降の世代を代表する「個人の心情を叙情的に唄ったニューミュージック」という対比がある。まさに、60年代末の「政治の時代」においては、歌謡曲以外のカウンターカルチャー的な邦楽は、いわゆる「反戦フォーク」が代表的だった。それに対し70年代に入ると、もっと個人的な恋愛感情などを唄った、よりポップな音楽が現れてきた。

この変化は、主たる音楽ユーザーである「若者」が世代交代し、世代間の意識の違いから引き起こされたものとして、一般的な「世代間対立」の概念でとらえることができる。しかし団塊の世代とそれ以降の世代における音楽論争には、それ以外にも、もう一つの対立軸があった。いわゆる「ロック論争」というものがそれである。この対立の根っこには、単なる意識の変化ではなく、日本的なものと、西洋的なものと、どちらにより多くシンパシーを持つかという違いがある。

簡単に言ってしまえば、「ロックとは、英米人になりきって、英語で唄うもの」と考えるのか、「外人のフリをしてもモノまねに過ぎないのだから、日本人による日本語のロックを創るべきだ」と考えるのか、という対立である。このロック論争は、もともとは団塊の世代の中における、世代内抗争として引き起こされた。都会派対地方派。あるいは、新譜を輸入盤のLPを買えた富裕層対、国内版のシングルを買うのがやっとの層。マニア対一般ファンという捉え方もできる。

もともと世代内格差が大きく、全体のヴォリュームも大きい団塊の世代だけに、内部の「セクト」でも、そこそこの大きさを持つ。だからこそ、「論争」たり得たのだ。その後、高度成長により、若い人ほど、根拠のない外国コンプレックスから自由な人が増えてくる。これにより、ロック論争が、団塊の世代の世代内の抗争から、英語派が多数の昭和20年代生まれ世代対日本語派が多数の昭和30年生まれという「世代間対立」になり、メジャー対カウンターではない、ヴォリューム感を持つ対立となった。

こう考えて行くと、ロックについての話という意味ではロック論争なのだが、自分が「外人」になろうとするのか、自分なりの「日本風ロック」を作ろうとするのか、という分水嶺は、けっこう各々の世代が背負っているものと関係が深いことがわかる。古い日本を背負い、占領下に育ったことから、海外にコンプレックスを持つ、団塊世代に代表される昭和20年代生まれ。高度成長と共に育ち、世界にはばたく日本を見て育ち、西欧に何らの負い目も持たない、新人類世代に代表される昭和30年代生まれ。

その違いは、いろいろなところに現れてくる。「洋食」を食べる姿もその一つだろう。英語派は、右手にナイフを持ち、左手にフォークをひっくり返して持ち、苦労して皿に盛った「ライス」を食べる世代である。それに対して日本語派は、右手に持ったフォークで、そのまま皿に盛った「ご飯」を食べる世代だ。さらに前者は、実はライスが食べたくても、格好を付けてパンを頼んでしまう世代でもある。それに対して後者は、洋食のディッシュでも、なんのてらいもなく、和定食セットにして、お箸で食べてしまう世代なのだ。

それだけでない。こと食生活だけ取ってみても、「肉と魚と、どっちが高級な感じがするか」とか、「和食と洋食と、どっちが改まった感じがするか」とか、この両世代間のギャップはあまりにも大きい。進駐軍により、アメリカ人を目前にして、敗戦による欧米コンプレックスが再燃していた時代。高度成長を遂げ、世界の中の日本のプレゼンスも、その良し悪しはさておき確立した時代。育った時代背景が違う分、刷り込みの違いが大きく出ている。この差が、音楽趣味にも現れているのだ。

さて、音楽のような文化現象では、ミーム的な伝承も顕著に見られる。団塊の世代以降、ポップミュージックが青年やティーンズだけのものではなく、年齢を超えて楽しまれるものとなった。その分、親から子への趣味の引継ぎも行われるようになった。団塊の世代 にとっては、ポップミュージックとは洋楽であり、和製であっても洋楽のコピーでなくては行けなかった。それに対し、新人類にとっては、ポップミュージックとはJ-popであり、必ずしも欧米風とは言えない要素もウケ入れた。

面白いのは、団塊Jr.にとっては、ポップミュージックとはヒップホップである点だ。彼らが求めたのは、ヒップホップの精神性ではなく、形式的なスタイルである。表面的なカタチやノリが、黒人のストリートカルチャー的に「見える」ことを求めた。いわば、気分で「黒人になりきる」ことだ。これは、その親である団塊の世代が「アメリカ人になりきる」ことを求めたことと見事に符合する。この体で行けば、新人類Jr.は、また日本回帰する。昨今見られるナショナリズムへの志向は、まさにこれを体現しているのではないだろうか。



(04/09/17)

(c)2004 FUJII Yoshihiko


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