外国語会話の習得





相変わらず外国語学校が繁盛している。それだけ外国語会話習得へのニーズがあるということなのだろうが、いろいろな外国語学校を渡り歩く「外国語学校マニア」みたいなユーザーも結構多い。「ウチのカリキュラムなら話せるようになる」ことを強調した広告が多いことも、それを示している。宗教などでも、次こそ本当に救われるのでは、という期待を持って、いろいろな宗教を渡り歩く人がしばしば見られる。費用対効果の曖昧な、この手の「不安産業」においては、こういうヘビーユーザーがコアになっていることが多い。

さて、外国語が習得できない人にも理由は色々あると思うが、こと現代の日本においては、その理由の最たるものは、「話す中身を持っていない」ことである。外国語とは、あくまでもコミュニケーションのための手段だ。その習得は、コミュニケーションしたい動機や目的があってはじめて意味を持つ。逆に言えば、コミュニケーションしたい動機も目的もない人にとっては、いくら会話そのものを学習したとしても、コミュニケーションが成り立たない。

これは、逆の面から見てもハッキリする。目的や動機があれば、わざわざ学校に通って学習しなくても、外国語の習得などできてしまう。戦後の混乱期に、進駐軍に取り入り、見よう見まねで英語をマスターしてしまった闇商人も多い。また、恋すればこそではないが、下心が嵩じて、夜の会話からコトバをマスターしてしまう人も結構いる。文法とか、言語学的な分析とかはさておき、話すだけなら学ぶまでもなく、そんなものだ。子供が学校に通って勉強する前に、コトバをしゃべることができているではないか。

さらに、自分で発したいメッセージがキチンとあるなら、コトバ自体は相当にいいかげんでも、キチンと相手に通じるものだ。先ほどの例ではないが、相手への熱い恋心があるならば、語学的な知識は不充分でも、その気持は充分に伝わる。これは恋の常識だし、国際恋愛でも例外ではない。このポイントは、いかに口が達者で、技巧の限りを尽くしてくどいたからと言って、相手が落ちるワケではないところにある。そしてそれは、母国語で口説く場合でも全く同じ点に着目する必要がある。

コミュニケーションの本質は、コトバではない。コトバはあくまでも手段の一つであり、大事なのは、伝えたいメッセージやそこに込めた情熱なのだ。と考えて行けば解るように、現代日本での外国語学校の繁盛が示していることは、現代の日本人には、いかに他人に伝えたいメッセージを持たない、あるいは持ち得ない人が多いか、ということなのだ。ということは、これは別に「外国語」の問題ではない。間違いなくこういう人たちは、日本語でもコミュニケーションができていないからだ。

かつて、80年代にパソコンの将来的な普及予測をしたことがあった。DOSベースの一太郎、マルチプランの時代のことだ。パソコンは究極の文房具という認識から、普及のキャップを予測した。その時に、ベースとなるデータとして、日本人には「本を読まない人」「字を書かない人」がどのくらいいるかを調査したことがある。基本的に、どちらもおよそ全国民の3割、1/3程度と言う結果であった。類似の調査は色々行われているのが、どれでも同じような結果が出ている。

これをベースとして、受動的にメッセージを受取るが、自分からはコミュニケーションする動機や目的のないヒトを予測してみよう。この1/3の人達は当然含まれるが、それよりも圧倒的に多いと考えられる。日本国民全体の中で、人に伝えたいメッセージを持たないヒトは目の子で2/3ぐらいいるのではないか。あるいは、いわゆるニッパチルールやABC分析的な視点で行けば、8割程度とも見積もれる。まあ、大部分の人は、メッセージを持っていないと考えるべきだろう。

逆に言えば、この事実は、日本の社会が、あえてコミュニケーションしなくても、群集の波間に紛れて生きて行ける社会だということを示している。まさに、ここにこそ日本の大衆の本質が隠されているのだ。ということは、「甘え・無責任」の顕教徒が、全体の8割を占めるということに他ならない。しかし、これは視点を変えてみると、そうでないヒトも2割はいるということではないか。全てがそうとは言わないが、密教徒の予備軍が全体の2割。これは結構多い。決して悪い話ではないぞ。


(04/10/01)

(c)2004 FUJII Yoshihiko


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