「密教徒」の苦悩





すでに何度かこの場で主張しているし、前回は定量的にとららえてみたりしたように、今の日本においても、ノブリスオブリジェを果たすべき人、果たせる人はいないワケではない。多数ではないものの、相当数気高い人はいる、と考えられる。それらの人が、「オブリジェ」を果たしていないところ、あるいは果たせないところにこそ、現在の日本社会の持つ構造的な問題がある。簡単に言ってしまえば、気高さを発揮しても、誰も評価しないし、逆に足を引っ張る「大衆」も多いということだ。

「一億層中流」が標榜されていた頃も、日本には「階層」はあった。少数の育ちのいい人間と、多数の育ちの悪い人間との間には、壊しがたい壁があったのだ。育ちのいい人間には、育ちの悪い人間との違いはわかる。しかし育ちの悪い人間は、育ちのいい人間はどこが違うかはわからない。「育ちの良さ」とは、そういうモノなのだ。しかしそうであるがゆえに、「数の暴力」の前に、少数の育ちのいい人間は、自分たちが違う存在であることを主張できなかった。

少なくとも20世紀後半の日本社会は、確かにある「階層」差を認めることが許されないだけでなく、上品で気品があること、財産があって生活に余裕があること、育ちが良くて心がキレイなこと、といった、人間として上質であることを主張することさえ許されない社会である。ヒトの価値観は百人百様なので、悪平等を良しとすること自体は別にかまわないと思うが、それを他人に押しつけるのは言語道断だ。しかし、この悪平等主義の人たちは、自分の主張をヒトに押し付けたがる。そしてタチの悪いことに、数が多いときている。

これは、才能のある人間に対しても発揮される。芸術やスポーツなど、天才的な能力のある人間は、村八分的に距離を置かれ、努力に汗を流す凡才が、その結果とは関係なく評価される。いわゆる「体育会」型のコミュニティーは、この典型的な例である。同じように、地アタマのいいヒトや、人間性の良いヒトも、おなじように疎んじられる。こういう人たちは、社会一般に対しては、なるべく本来の自分の姿を見せないようにし、限られた人たちの中だけで、自分をカミング・アウトさせてきた。まさに、能ある鷹がツメを隠さざるを得ない社会だったのだ。

「甘え・無責任」な大衆にとっては、今の日本社会に広がる「無責任体制」は、重大な既得権となっている。したがって。これをぶち壊す恐れのあるものに対しては、極度に反発する。ひとたび「責任」の話をはじめると、「顕教徒」達は、アプリオリに平等意識を持つので、自分たちが責任を取らされるのではないかと勘違いする。当然、ノブリス・オブリジェに基づき「責任」を取ろうという人の足も、十把一からげで引っ張ることになる。

しかし、もっと大きい視点から考えてみれば、気高い人が叫んでいるのは、「皆が皆、責任を取るようにしよう」ということではない。責任を取るべき人が、責任を取るようにしよう、ということである。だが、顕教徒たちにはそれは受け入れられず、数の暴力に押しつぶされることになってしまう。そのリスクを犯してまで「責任」を取れるヒトは、「気高いヒトの中でも最も気高いヒト」か、余程「モノ好きな気高い人」ということになる。多くの場合は、社会的にはノブリスオブリジェを果たさないまま、自分たちのコミュニティーの中だけで責任を果たすことになる。

この結果、気高いヒトは、決して「悪平等」派に付和雷同しているワケではないと思うのだが、社会的に自分の主張をし得ない位置に追いやられてしまう。結果として、自分のこと第一でやらざるを得なくなる。結果、一億総無責任社会化し、悪平等の極みに陥っている。しかし、流石にそれでは自己崩壊する。昨今、日本社会の階層化が語られ出したというのも、悪平等の自己崩壊の一つの現れだろう。決して「階層化が始まった」のではなく、「悪平等のメッキがハゲた」だけなのだから。

こう見てゆくと、一番問題なのは、顕教徒たちが「自分も責任を取らなくてはいけなくなる」と思っている誤解である。これさえなくなれば、日本の社会は良くなるし、活性化する。そのためには、「責任と権限は、責任を取りたいヒトに押し付けよう」というキャンペーンをはるのが一番いい」。キチンを責任を取れるヒトを、その気にさせる限りにおいて、無責任はいいことなのだ。でっかい「天皇」に責任を丸投げするのではなく、近くのちっちゃい「天皇」に責任を押し付けたほうがいい。足を引っ張ることをヤメさせるには、これが一番いい方法だろう。


(04/10/08)

(c)2004 FUJII Yoshihiko


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