「右肩上がり」の呪縛





この期に及んで、まだ「右肩上がりの呪縛」から逃れられない人たちがいる。「ゲームオーバーへの恐怖」とでもいえばいいのだろうか。ゲームが続いている限り、チャンスも続いているという幻想を持っているがゆえに、右肩上がりで「ゲームが進行中」ということを確認できないと不安になる。そもそも、世の中には、持てる者と、持たざる者がいる。しかし、拡大主義、右肩上がりの膨張主義にコダわるのは、まだ分け前にありついていない持たざる者だ。

しかし良く考えてみれば、右肩上がりだからといって、誰もが分け前にありつけるワケではない。いままでオイシイ分け前にありつけなかった人にとっては、今後も成長が続くというだけでは、今後分け前にありつける保証はどこにもない。確かに、テイクオフをはじめたばかりの状況においては、全ての人に平等にチャンスはある。しかし、これはあくまでも「機会の平等」である。悪平等主義者が大好きな「結果の平等」ではない。

実は、すでにここで、成功者と失敗者の実力差は明確に出ている。平等に機会があったにもかかわらず、それを活かして成功に導けなかったということは、それ自体「負け」なのだ。本当は、ここでその事実を悟る必要がある。しかし実際には、パイの拡大するスピードの方が速ければ、反省する前に「次のチャンスに賭けよう」という気になってしまう。結果として「今回はウマく行かなくても、次のチャンスがあるさ」ということになる。

そもそも、そういう発想をする人は、「成功」からは縁遠い。何事においても成功のためには、リスクヘッジと細心の注意が必要である。「ギャンブラー」と単なる「賭け事好き」との差は、引き際を心得ている点だ。負けがある閾値を越えたところで、「今日はつきがないのでヤバいから、傷が深まる前にここで退こう」と思える人なら、ギャンブルで稼ぐことができる可能性が高い。一方、「次はきっと大当たりが出る」と思ってしまう人には、奈落の底が待っている。

サチる限界点が近くなると、いよいよ「実力差」がハッキリする。テイクオフ期より「勝つこと」が難しくなっている以上、こういう時期になると、すでに圧倒的な「勝率」を残している実力者の方が、一度も勝っていない者よりも、ずっと成功する確率が高い。結局、成熟期というのは、持てる者は、ますます富み、持てざる者は、トライすればするほど傷口を拡げることになる。こういう状態では、あえてリスクを取るメリットはない。

ところが、こういう状況下でも、成功している者がいると、自分も「あわよくば」と参入してしまうのが、日本人の甘いところだ。分け前にありつけていない者が、もし分け前にありつきたいのなら、基本的には、すでにエスタブリッシュされた競争に参入するよりは、全く新しいフィールドで全く新しいルールで行われる、新たなゲームをはじめて、そこに参入するほうが、余程成功する可能性は高い。

これは、「選択と集中」的な考えかたとして、少なくともビジネスの世界では、90年代末以降は常識となっている。そもそも経営戦略においては、勝つ可能性の薄いような、ムダな競争に巻き込まれ、リソースを消費してしまうのが、一番意味がない。したがって、自らそういうリスクに飛び込むのは、愚の骨頂である。当然、めったやたらと張らずに、勝つ可能性の高いところだけに張るのが王道となる。そうであるなら、すでにそこで成功した者以外が、エスタブリッシュされたマーケットに拘泥するのは意味がない。

持てざるものがチャンスを求めたがることは、何も否定しない。しかし、それが右肩上がりの青天井を求めることは間違っている。チャンスは、違うフィールド・違うマーケットで、違うゲームをはじめることによってしか得られない。しかし、そこでチャンスをつかむには、リスクを取る勇気と、競争に勝ち残る努力が要る。リスクも取らず、努力もせず、右肩上がりのマーケットからオコボレを貰おう、という発想自体がおかしい。しかし、それこそが、悪平等主義者の面目躍如ということなのかもしれないが。


(04/10/15)

(c)2004 FUJII Yoshihiko


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