マス広告のなくなる日






20年ぐらい前から、「マス広告の終焉」がまことしやかに語られて続けている。あたかも「原油が尽きる日」を語る時のように、手を変え、品を変えて理屈がつけられているが、なかなか現実は理屈のようには進んでいないようだ。80年代から90年代にかけての「ニューメディア・マルチメディアブーム」の頃は、多チャンネル化でメディアが多様化し、マスを取るものがいなくなる、と言われていた。多チャンネル化は実現したが、かえって地上波の民放ネットワークは強くなってしまった。

その後の「インターネット・ドットコムブーム」になると、メディアがインタラクティブで双方向化するので、受動的で一方向のテレビ型メディアは衰退する、と言われていたが、結局のところインターネットの大衆化により、インターネットコンテンツもインタラクティブに消費するものではなく、受動的に消費するものになってしまった。何のコトはない。泰山鳴動してネズミ一匹。やればやるほど、オオカミ少年になってしまう。ブームで儲けたのは、アジテーターの評論家とセミナー屋だけという声も多い。

まあ、高い授業料だったと思うが、メディアやインフラの変化や進化は、コンテンツの送り手と受け手の関係に、何ら変化をもたらすものではないのだ。この面でいくら変化が起っても、「マス告知」というニーズがある限り、スポットキャンペーンはなくならない。逆に、ブロードバンドや携帯でテレビを見る人が増えることを考えれば、リーチが増す分、スポットの価値は高まる。そもそも、すでに地上波テレビの直接受信が1/3を切っている状況でも、「広告効果」には何ら変化がない事実がそれを示しているではないか。

では、生活者の情報行動の変化はどう言う影響があるか。インターネットも「受身のメディア」にしてしまうように、今の日本では、コンテンツ消費に関する情報行動は、若い人ほど受動的である。メディアからやってくるコンテンツに対しては、ますます「まったりとしたエンターテイメント」を求めるようになる。だらだらと、見るともなく、見ないともなく時間をつぶせるコンテンツ。こういうニーズには、やはりテレビが一番強い。ということは、マス視聴者がいなくなって、マス広告が成り立たなくなる、ということもなさそうだ。

唯一変化がある可能性。それは、日本において「大衆」がもはやマーケティングの対象とはならなくなったときに他ならない。その日がやってくる可能性は、マスメディアがなくなる可能性や、マス視聴者がいなくなる可能性より、よほど高いからだ。今、日本では階層分化が、建著に起りつつある。階層分化が行きつくところは、どこだろうか。それは一億層中流という「悪平等の幻想」の崩壊と、それによる人々の「多数の超貧困層」と「少数の超富裕層」への分化だ。この時点では、今でいう「大衆」とは、「多数の超貧困層」と同義になる。

大衆がターゲットというのは、金科玉条ではない。今、マス・マーケティングが「大衆」をターゲットとするのは、「大衆相手」が商売になるからだ。理由はそれだけ。だからこそ、金をかけてキャンペーンを張り、パイの極大化を図る。マス・マーケティングがもてはやされるには、「それなりに金を持っている大衆」の存在が前提になる。そして、悪平等意識と右肩上がりの経済成長に支えられた、「財布の中身だけで人間が捉えられる社会」が大衆社会だ。そしてそこでは、「財布の中身はみんな同じ」だったのだ。

しかし大衆が貧困化してしまえば、これはもう「タダ数が多いだけの集団」だ。その購買力がたかが知れている。これでは、大衆はもはやターゲットとしては意味がない。もちろん、特殊なビジネス、たとえば自己破産の請け負いとか、債権回収者への対応とか、貧困層ならではのニーズがないワケではない。すでに、この手の「法律事務所」の広告は、比較的平均所得の低いエリアでは、良く目にする。そういう特殊なビジネスはさておき、一般の商品では、貧困層になった大衆にアピールする意味がなくなる。

もちろん、数がモノをいう商品もある。衣食住の基本アイテムは、所得に対する弾力性が下方硬直的である。こういう生活の基本商品は、そういう時代になっても、貧困層による売上がバカにならないシェアを持つと考えられる。しかし、多数の貧困層を広告ターゲットとする人はいない。最低限の必需品しか買わないし、最低限の必需品なら、広告を打って需要を喚起しようがしまいが、マーケットの大きさは変らないからだ。まさにこういうターゲットなら、キャンペーンを張らなくても、平積みにして、価格競争力のある値段をつけておけば、それだけで売れる。

では、そういう時代になったとき、いったいどういうマーケティング手法が中心となるのだろうか。それは、コア・ユーザたる500人から1000人を相手に、極めて付加価値の高い商品を、ヒューマンリレーションを活かして販売することが核となる。「セレブリティー・マーケティング」とでも言おうか。もちろんコミュニケーションのしかた、商品や店舗の見せ方、あらゆる面で、セレブリティー・マーケティングならではの手法や技法が必要となる。それが、21世紀型の広告手法、キャンペーン手法、ということになる。これは、マス広告の手法とは決定的に違う。

今でも、この手の商品はある。高級ブランド商品の「常連」さんとか、外商のいわゆる「お帳場」とか、極めて消費額の高い層をイメージしがちだが、そういうモノだけではない。実は、高級ホビーの世界、それもオヤジホビーの世界は、ほとんどこれなのだ。マスによる不特定多数の獲得でない。限られた顧客のリストの中から、見込み顧客を絞り込むマイニングでもない。特定のユーザーの指向に合わせて、個々に品揃えをする。一人一人の顧客を知ることから始まるマーケティングだ。しかし、元来、商売とはそういうものだったのではないか。

マーケティング・コミュニケーションがなくなるワケではないし、広告がなくなるワケではない。だがそれは、限定少数の「お得意さま」とのコミュニケーションとそのためのツールが中心となる。「底引き網」で、想定ターゲットもそれ以外も、根こそぎ掻っ攫う必要はない。相手の顔が見えているのだから、「一本釣り」の方が効率がいい。大衆の需要を喚起してもパイが拡大しなくなるのなら、マスキャンペーンがなくなる可能性はあるということだ。さて、このまま行けば、2040年から2050年にはこういう状況がやってくるのではないか。これもまた、20世紀的な大衆幻想の崩壊、というだけのことなのだが。




(04/10/22)

(c)2004 FUJII Yoshihiko


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