教育より選別







人間を語る時には常に心にとめておくべきコトとして、「才能や素質は、後天的にフォローできるものではない」ということがある。そして、教育とはあくまでも、後天的なフォロー以外の何物でもない。教育の問題を考える際に、最も重要なのはこの点である。本来人間社会における「平等」とは、「機会の平等」のことである。少なくともチャンスそのものが平等にあれば、公平なのだ。その結果については、差ができて当然であり、それは決して不公平ではない。「結果の平等」を求めることは、もはや「悪平等」である。

教育に過度に期待することは、「結果の平等」を求めることに他ならない。同じ教育プロセスを経たとしても、そこから得られる結果は、元来持っていた才能や素質によってことなる。それは、教育は本質的に「後天的なフォロー」だからだ。教育のプロセスとは、いわば「オーディオアンプ」のようなものである。いいオーディオアンプは、いいソースでも悪いソースでも、そのまま増幅する。出てくる音がいい音かどうかは、ソースの問題であり、アンプの責任ではない。

まさに教育とは、この「高級オーディオアンプ」のように、もともとあった才能や素質を「n倍」するだけの機能である。もとがゼロなら、何倍してもゼロ。もとがダメなら、増幅すればするほどアラが目立つ。オーディオソースの欠陥は、アンプではどうやってもフォローできないのと同じように、もともとなかったり、足りなかったりする才能や素質については、どうあがいても教育でじがフォローできない。悪平等主義者は、同時に「甘え・無責任」なので、自分の責任たる「能力不足」は棚に上げて、教育にばかり責任を帰する。

だが、それは客観的に自分を見つめていないだけ、ということもできる。教育されている間に、本人が客観的かつ相対的に自分自身の才能や素質を見つめれば、否応無しに事実に気付かざるを得ない。本来教育とは、こういう気付きのプロセス、選別のプロセスを含んだものだったはずだ。教育において、知識をつけることより、もっと重要なこと。それは、自分はどういう人間なのか、自分の優れているところはどこで、劣っているところはどこなのか、自分の持っている素質は、一体何に向いているのか、といった「自分を知る」ことだったはずだ。

しかし、悪平等主義者はそれを拒否する。あくまでも、「機会の平等」を貫徹するがゆえに、結果に差がつくことを認めない。だから悪平等主義者が教育の現場に入ると、ストレートに「結果の平等」を求めることになる。したがって、「点数や順位をつけない」発想がはびこる、しかし逆説的に考えると、こういう主張が強まるのも、本来教育では「才能や素質の差」はどうにもフォローできないことは、いかに悪平等主義者といえども、教育現場にいる限り、実感として知ってしまっているからだ。

さて、教育がこと日本においてウマく機能しないこのには、もう一つ理由がある。それは、能力評価、成果評価が日本でウマく行かない理由と同じである。他人を評価する力は、当人の能力そのものと密接な関係がある。当り前だが、自分以下の能力や成果は、定量的に把握・評価することができる。しかし、自分より優れた能力や成果は、「スゴい」ことはわかっても、それを定量的に把握・評価することはできない。ハヤり言葉で言うならば、「バカの壁」である。

スポーツ中継で、二流・三流の解説者は、精神論は言えても、客観的な分析や評価ができない。こういうつまらない論評は、野球中継でもオリンピックの特番でも、実に良く見かける。これも同じ理由である。評価する側は、その能力において、あくまでも評価される側より「≧」出なくてはいけない。これが鉄則だ。だから、年功序列で、能力のない人間が評価者になってしまうと、能力評価、成果評価はなりたたない。

日本企業の場合、成果主義を導入しても、その評価制度だけを導入し、評価者そのものを入れ替えていない。これでは失敗する。人材に関するシステムは、制度ではなく運用に本質がある。だから、制度をどうするかよりも、評価者をどうするかの方が、よほど重要である。声高に「成果主義」を導入しなくても、管理職を「バカでも年功でなれるポスト」ではなく、能力も見識も高い人材だけがなれるポスト、に変えればそれで済んでしまう。そして、その方がよほど効果的に運用できる。

当然これは、人格や人徳の評価においても同じオキテが罷り通っている。人格や人徳だって、わかるヒトにはわかるし、わからないヒトにはわからない。自分に人格や人徳が備わっていれば、ある程度継続して相手を見ていれば、キチンと評価可能なファクターなのだ。さらに、人格や人徳に優れ、さらに勘も鋭い人なら、ちょっと見ただけで相手の人柄を評価可能だ。「どのぐらい高い人徳があるか」については、ちょっときついかもしれない。しかし、少なくとも、人格や人徳のないヒトは、すぐにわかる。そして、世の中にはそういう人の方が多い以上、こういう「足切り」は大いに役に立つ。

とにかく、自分は「がんばっている」「できている」つもりでいても、見えているヒトには、客観的な評価が見えているのだ。冷たく言えば、自分が気付いていないだけ。だから、「まだやれるぞ」「もっとやれるぞ」と、過度な期待を持たせるよりも、早い時期に選別し、分相応の生き方を選ばせたほうが、よほど人間として幸せだ。そう考えていけば、そもそも「教育問題」などというものは存在しないことがわかるだろう。それは、「教育」に過度に期待し、分不相応な「教育」を受けさせようとするから起る勘違いである。そういう思い込みをする方こそ、間違っているのだ。



(04/10/29)

(c)2004 FUJII Yoshihiko


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