マス・マーケティングの亡霊






日本における「マーケティング」は、欧米の「marketing」とは似て非なるものである、とは80年代の後半ぐらいからよく言われるようになったことだ。しかし、そういう手法レベルの差異以前に、高度成長期の日本的経営においては、商品戦略そのもののあり方も、欧米企業のそれとは大きく違っていた。その中身の是非についても議論は百出すると思うが、少なくとも右肩上がり時代においては利益が上がり、成長できたことは事実であり、その限りにおいては、間違っている、と断じることはできないだろう。

しかし、その違いを知らない、その違いがわからない、という問題はちょっとワケが違う。今日本企業の多くに起っている問題は、その高度成長期しか通用しなかった「商品戦略」以外の戦略の可能性を知らないし、理解できない人々、すなわち団塊の世代を中心とする現在の50代の世代が企業幹部としてポジションを占めていることに起因する。彼らは、こういう「日本的経営」が確立し、末期とはいえ右肩上がりの続いていた時期に入社し、他の戦略的あり方を知らずに会社員生活を送ってきた。

この日本的商品戦略の特徴とは、一言でいえば「モノまね商品を安く出す」ところにある。日本経済自体が世界の中では後発であったため、常に「追いつき追い越す」目標があった。こと商品戦略についても、フォロワーとして踏襲すべきお手本が必ずあった。というより、そういうお手本のあるところしか手を出さなかったということができるだろう。そういう「手本主義」は、機能やスペックといった技術的仕様から、デザイン、ネーミングのようなものまで、あらゆる面で開花した。これが高度成長期の本質である。

もちろんそういう時代でも、単にモノまねに留まらず、独自の改良や付加価値といったオリジナリティーを加えた商品を提供しているメーカーもあった。そういうDNAを持った企業ならば、世界に伍して競争することが可能だ。だからこそそれらの企業は、90年代を通して成長し、今では世界中で高いブランドイメージを持つに至った。しかし、それができた企業は、日本企業全体から見れば、ホンの一握り。せいぜい二桁の前半である。何万社とある日本企業の中では、例外中の例外なのだ。そういう成功者の事例で、全てを語ることはできない。

最近、欠陥車を続出し、企業体質自体が問われている自動車会社が、欧米の高級自動車メーカーの傘下に入ったとき、そのメーカーのデザイナーが、「これで、(その高級車のデザインを)モロにパクっても問題なくなる」と小躍りして喜んだ、という都市伝説が流れたことがある。これなど、まさに多くの日本企業に巣食う体質的な問題を象徴している。そのように、モノまね商品を安く提供する以外にコンピタンスがないのが、多くの日本企業の特徴である。まさに、アタマがなく、延髄から下だけでモノを作ってきたということができる。

となると問題になるのが、それを受け入れてきた消費マーケットのあり方だ。基本的には、「飢えている以上、口に入れられるものなら何でも良い」ということだったのだろうが、ここに「貧すれば鈍する」悪循環が成立してしまった。「ブツさえあれば、商品力は問われない」のであれば、誰も商品力を高めようとはしない。入れ食い状態の生簀ではないが、ヒトより「より早く、より多く」商品を投入しさえすれば、間違いなく売上は増す。ここに、日本的経営の特徴である「シェア主義」が生まれてきた。

こういうマーケットの状況と、商品戦略のあり方をベースに生まれてきたのが、日本的なマス・マーケティングなのだ。本来なら、マス広告を展開しただけで、商品が売れるわけがない。マス広告は、新製品を告知することはできる。また、プロモーションを組み合わせた広告キャンペーンならば、見込み顧客を店頭に向かわせ、さらには商品を手に取らせるところまではできる。しかし、それをお買い上げ頂けるかどうかは、その商品の商品力の問題である。

いかに完璧なキャンペーンをやったとしても、商品力のない欠陥商品を売りつけることはできない。これは、少なくとも80年代以降、広告に携わるものにとっては常識だ。ところが、それが罷り通ってしまったのが、高度成長期の成功体験なのだ。そういう意味では、マス広告すらなくても、店頭に並べさえすれば飛ぶように売れたという方が正しいだろう。実際当時は、欧米商品をパクった「一流メーカー製」の商品に伍して、それをパクった二流メーカー製の商品というのも多かった。それらは、一切広告キャンペーンは行わないが、並べるだけで売れていたのだ。

そう考えてゆけば、90年代を通して語られ、いまでもよく語られている「マス・マーケティングの崩壊」というのは、実はとんだ見当外れであったことがわかる。なんせ崩壊する以前に、まともな意味での「マス・マーケティング」をやったことがないのだから。厳密に言うのなら、「マス・マーケティングすらやったことがない企業でも、モノが売れたよき時代の終焉」というところだろうか。とにかくこの問題は、企業から高度成長期の残滓を引きずる人たちがいなくならない限り解決しない。あんた方が仕切っていると、年金が危なくなりますよ。彼らへの殺し文句は、このあたりで決りだろうか(笑)。



(04/11/19)

(c)2004 FUJII Yoshihiko


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