無責任の王国







「甘え・無責任」な顕教徒にとって「居心地が良い」組織とは、そこに所属しているだけで、責任が曖昧にでき、役得だけはしっかりと得られる組織に他ならない。日本の官僚システムは、この「無責任組織」のあり方を、その運用法まで含め、芸術的なまでに完成させたものである。しかし、さすがにこのようなシステムは、「お上」だからこそできるのであり、民間ではなかなかここまで実現できるものではない。民間での「無責任組織」のあり方には、大きくわけて二つの道がある。

一つは、戦後の官僚組織における「無責任」のあり方を、民間向けにデチューンしたような形態である。「無責任による、無責任のための、無責任な組織」とでも言おうか。いわゆる「みんなで渡れば恐くない」方式である。この特徴は、責任を特定個人や特定ポジションに結び付けないところにある。それにより、皆が皆、責任があるといえばあるし、ないと言えばない状態が現出する。いわば責任まで悪平等に分散させてしまおう、というやり方だ。

こうなると、いざ責任を問おうと思っても、特定の責任者はいない。それではと、少しでも関係のある人間をリストアップし出すと、対象がどんどん拡大し、最後には意志を持ち得ない「組織そのもの」になってしまう。ミツバチの巣にスズメバチが攻めてくると、圧倒的に多数のミツバチが、スズメバチに群がることで、スズメバチを熱責めにして憤死サセてしまうという。このように、敢えて多数で群がることで、責任そのものをウヤムヤにしてしまおうというモノである。

この手の組織の特徴としては、どこをどう切り取っても、金太郎飴のように「無責任」が顔を出す点にある。そういう人間しかいないのだからあたりまえといえばあたりまえなのだが。この結果、その組織のトップに立つ人間自身もまた、「無責任」の権化である、ということになる。本来、少なくともトップだけは、自ら責任を取る人間でないと、組織は成り立たない。そこに「無責任」な人間が座るというのだから、これは尋常ではない。

それでも、経済が右肩上がりであれば、一応売上の数字だけは上がってしまうというのが恐ろしいところ。かくして、高度成長期の日本社会では、この手の「総無責任会社」が林立した。日本の「大企業」と呼ばれる会社の中には、この手の会社がかなり多い。高度成長が終わり、経営トップの舵取りが必要になると、この手の会社はガバナンスを失い、不祥事やトラブルを頻出するようになる。昨今ニュースを賑わせた「問題会社」のトップを見れば、彼らがいかに無責任かはすぐにわかるだろう。

さて、もう一つの無責任組織の形態は、戦前の典型的無責任組織である「軍部」のあり方を、民間化したようなものである。「責任は天皇に、役得は自分に」とでも言おうか。これは、責任のヒエラルヒカルなタライ廻し機能を、組織の構造そのものとしてビルトインしてしまうところに特徴がある。自分は言われてやっただけであり、責任は「上」にある、とばかりに、責任を次々と「上」にふって行くことで、最後は誰も責任を問えない相手のトコロまで、その「責任」が上げることで、組織の構成員は責任を取らずに済まそうというものである。

「水戸黄門の印籠」ではないが、強力な「紋所」の存在は、全ての免罪符になってしまう。その組織にアンタッチャブルなまでにプレゼンスのある「天皇」が存在するのなら、そのご威光を傘に着ることで、全てが許されてしまう。もともと、日本の国に天皇制が必要とされる理由自体がこれなのだが、そのミニ版は、企業の中でも充分に成り立つ。いや、企業という合目的的組織の中だからこそ、その「ご威光」は、よりインパクトを持つと言うことができるだろう。

昨今経営が行き詰まった企業の中には、強力な個性とプレゼンスを持ったワンマンオーナーを抱く企業も多い。これは、まさに天皇の威光を借りることで、社内でやりたい放題無責任にしまくる幹部、中堅幹部が多かったからこそ起きる問題だ。もちろん、企業の規模が小さい時代なら、オーナーのカリスマ性は直接全社員に届くし、企業内の情報も、直接オーナーからアクセスすることが可能だった。こういう時代においては、それなりにガバナンスは働いていたと考えられる。

しかし、組織が大きくなり、企業やグループ全体を、一人のオーナーが直接コントロールすることが不可能になると、「無責任な中間層」が跋扈しだす。こうなると、見えないところでは、自らが「天皇の名代」となって好き勝手に振舞う一方、その責任は、ホンモノの「天皇」の方に押し付けて知らん振りをするようになる。しかし、真実はオーナーの元には決して伝わらない。こうなると、オーナーはもはやハダカの王様でしかない。

こう考えてゆけば、今問われている日本社会の問題は、基本的に、「甘え・無責任」の顕教徒たちが、あまりに偉そうにのさばりすぎたことから引き起こされていることがよくわかる。問題は、数をたよりに彼らを我が物顔にのさばらせる「大衆社会」の構造にあるのだ。日本を変えるには、まず、この「無責任の王国」から脱することが必要だ。そのためには、彼らが逃げ込める隙間の多い組織を改めることからはじめなくてはいけない。日本において、グローバルレベルのガバナンスが必要とされる裏には、そういう事情もあるのだ。



(04/11/26)

(c)2004 FUJII Yoshihiko


「Essay & Diary」にもどる


「Contents Index」にもどる


はじめにもどる